こんにちは。おちです。
今回は、黄金薔薇十字団について語ります。
結論を先に言いますと、この黄金薔薇十字団の黒幕はヘッセンです。
18世紀の後半にヘッセンはフリーメイソン、イルミナティを乗っ取りました。
また、薔薇十字団、イエズス会も背後にヘッセンがいます。
これらオカルト満載の秘密結社の背後に、いずれもヘッセンがいます。
※本記事を読む前に イルミナティ奥の院 ヘッセン メタルレジスタンス【後編】 を読まれることをオススメ致します。
では、詳しく見ていきましょう。
ライトサイド フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)
前回の プロイセン ケルン大聖堂とドイツ騎士団 メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 ケルン”【前編】 では主にプロイセン王について語らせて頂きました。
その中でも、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)(1712年-1786年)は重要なので、もう一度抑えておきます。
啓蒙専制君主の代名詞であるフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)は、七年戦争で窮地に追いやられながらも、宿敵ハプスブルク家のマリア・テレジア(1717年-1780年)に勝利し、プロイセンの発展を決定づけるなど重要な役割を果たしました。
また、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)は、
「人民の幸福は、君主の利益よりも大事である。君主は決して彼の支配する人民の絶対的な主人ではなく、その第一の下僕にすぎない」
と述べ、この言葉を実現すべく行動していることから、民のことを第一に考える名君であったことが伺えます。
そして、啓蒙主義の代表的な人物であるフランスの哲学者ヴォルテールと親密に交際し、全30巻にも及ぶ膨大な著作を著し哲人王とも呼ばれていることは特筆すべきところでしょう。
このフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の活躍によって、民主主義への道筋が開きました。
従来の絶対権力の専制君主像を覆し、民主主義の思想を体現する先見的な君主像を新たに立ちあげたフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)。
当時のプロイセンの首都ベルリンは、その自由闊達な様子から「北のアテネ」と称されたといいます。
※アテネは民主制の象徴
専制君主制の抑圧された精神から、民主制の自由を謳歌する精神へ。
この時代にこのような君主が生まれたことは、まさにライトサイドの所業なのではないでしょうか。

※フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)については下記記事が分かりやすかったです。
啓蒙専制君主フリードリヒ2世が行った君主像の解体と国家の創造
しかし、そのフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)に子供はなく、プロイセン王を引き継いだのは甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744年-1797年)です。
そして、このフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744年-1797年)が「黄金薔薇十字団」というオカルト結社に傾倒していきます。

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が「黄金薔薇十字団」にハマることは残念ながら、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)と真逆の方向に進むことになります。
ライトサイドからダークサイドへ・・・。
ダークサイド 黄金薔薇十字団とは
黄金薔薇十字団とは、薔薇十字団の流れを汲むものです。
そもそも薔薇十字団(ローゼンクロイツ)とは、中世から存在すると言われる秘密結社で、公式にはフリーメーソンの第18階級とされています。
薔薇十字団は、17世紀初頭のヨーロッパで初めて広く知られ、錬金術や魔術などの古代の英知を駆使して、人知れず世の人々を救うとされています。
錬金術師やカバラ学者が各地を旅行したり知識の交換をしたりする必要から作ったギルドのような組織の1つだとも言われ、 薔薇十字団員を自称するカリオストロやサンジェルマン伯爵などが有名です。
※カリオストロは宮崎駿監督の「ルパンIII世のカリオストロの城」が有名
ちなみに薔薇十字団の名前が初めて登場したのが、1614年、神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで刊行された著者不明の怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』とその付録『友愛団の名声』です。
カッセル・・・。つまり、ヘッセン=カッセルですね。
ポイントは、
- 1614年(三十年戦争の4年前)にカッセル(ヘッセン=カッセル)で怪文書『全世界の普遍的かつ総体的改革』とその付録『友愛団の名声』が刊行された。
- 「人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する、不老不死の実現」のために120年間世界各地で活動を続けてきた秘密結社「薔薇十字団」(オカルト満載)
- 1615年に同じくカッセルで『友愛団の信条』が出版され、「教皇制の打破による世界改革」が強調された。
- これらの背景には薔薇すなわちイングランド王家をカトリック、ハプスブルク皇帝家の支配からの救世主として迎え入れようとする大陸諸小国の願望があった。※当時のイングランド王家のテューダー家の紋章は薔薇。
- 前述の怪文書の刊行から4年後の1618年にドイツを舞台とした宗教戦争である「三十年戦争」が勃発している。
DEATH!!
カール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯の生まれる100年前、ヴィルヘルム5世(ヘッセン=カッセル方伯)(1602年-1637年)の妻であるアマーリエ・エリーザベト(1602年-1651年)の時代。
※アマーリエ・エリーザベトはヴェストファーレン条約で第50条以降に記載されている『ヘッセン』に該当する人物。
当時のヨーロッパは相次ぐ戦乱とペスト(黒死病)で、常に『死』がつきまとう時代でした。
その時代に「人類を死や病といった苦しみから永遠に解放する、不老不死の実現」という言葉は、民衆を惹きつけるには十分だったでしょう。
この苦しみの原因を、贖宥状を売りさばくなど神を冒涜する行為に見える腐敗したカトリックの守護者、神聖ローマ帝国のハプスブルク家とし、そして「教皇制の打破による世界改革」を掲げ、大いに煽り、その救世主としてイングランド王家を渇望する。
その結実としての『打倒!ハプスブルク!!』。
この『薔薇十字団』の思想が原動力となって、当時のドイツの民衆に熱狂的に受け入れられたことにより、三十年戦争が始まりました。
『薔薇十字団』
これがヘッセン=カッセルの地から発信されたということですから、三十年戦争の黒幕にヘッセンがいたことが伺えます。
又、ヴェストファーレン条約でヘッセンが特権を得たことからも、ヘッセンの巧みな戦略が浮き彫りになってきます。
この薔薇十字団の流れを受け継いでいるのが「黄金薔薇十字団」です。「古式黄金薔薇十字団」とも呼ばれています。
薔薇十字とフリーメーソンが本格的に融合するのは、フリーメーソンのテンプル騎士団起源説が流行してからと言われています。
このフリーメイソンのテンプル騎士団起源説を奉じる者達は、フリーメーソンが錬金術の結社になることを望んでいました。
彼らはテンプル騎士団を錬金術の秘奥義に通じた秘教結社であると信じており、それが魔術結社の薔薇十字団と結びつき、フリーメイソンの「黄金薔薇十字団」運動へと発展。
1737年のフランス・パリで、騎士のアンドリュー・M・ラムゼイがフリーメイソンの目標は世界を一大共和国となすことで、起源は石工組合ではなく十字軍(テンプル騎士団)であると主張した演説を行いました。
これにより、フリーメイソンにテンプル騎士団伝説というオカルト要素が入り込みました。
そして、このテンプル騎士団は、「徒弟・職人・親方」の上位階級に属するものであるとも説いています。
これがスコティッシュ・ライトの上位階級の起源です。
※このスコティッシュ・ライトの15〜18の階級に『薔薇十字会』が据えられております。主題は『十字伝承、テンプル騎士団、アポクリファ(外典)』です。Wikipedia-フリーメーソン-
陰謀論でフリーメイソンが「ワン・ワールド」を目指す組織とされることがあるのは、ラムゼイの「世界を一大共和国となす」の発言が原因と思われます。
この「黄金薔薇十字団」運動が主に行われたのがプロイセン(ドイツ)です。
そして、1776年に三剣ロッジのメンバー数人が、「古式黄金薔薇十字団」と呼ばれる新しい薔薇十字メーソン組織を設立しました。
設立に関わったのがプロイセンの将校でフリードリヒ大王の没後軍務大臣になったヨハン・ルドルフ・フォン・ビショッフスヴェルダーと、プロイセン王の経済顧問だったヨハン・クリストフ・ヴォルナーの2人です。
ビショッフスヴェルダー、ヴォルナーの2人が「古式黄金薔薇十字団」の中心的役割を果たしていました。
ライトサイド ストリクト・オブザーバンツ、初期イルミナティ
「古式黄金薔薇十字団」が作られる少し前の時代、前述したプロイセン王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)(1712-1786年)は啓蒙思想を掲げ、「上からの近代化」を図っていました。
フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)は、人民の幸福を第一にする国を本気で作ろうとしていました。
そして、フント男爵の『ストリクト・オブザーバンツ(厳格戒律派)』。
当時(18世紀)のドイツは、反ローマン・カソリックが最高潮の時代。
※ローマン・カソリックの守護者であるハプスブルク家は八十年戦争(三十年戦争)で力が削がれ、この時代ではローマ皇帝を名乗りながらも、その力はその他諸侯と大差はありません。しかし、一諸侯でもその力はまだまだ健在でした。また、フランスのルソーやヴォルテールの啓蒙思想の社会契約論が活発になる時代。
※社会契約論は、封建制度の隷属的人間関係を強く批判し、人間の基本的自由を指摘することから始めて、自由な人間が全員一致の約束によって形成する理想的な国家形態を主張するものです。
そして、新大陸アメリカからは楽園を開拓する風景、民が主役となって国を作り上げる風景、しがらみから解放された自由を謳歌する風景などの報告が続々と届けられています。
反ローマン・カソリックへの反骨心、啓蒙思想、アメリカの憧憬。
これらはフント男爵に、ある夢を強く抱かせることに繋がります。
その夢とは、自分達の国土で自分達の民主主義を打ち立てる憲法によって、独立した貴族国家を実現することです。(立憲君主制)
フント男爵のストリクト・オブザーバンツは当時のプロイセン(ドイツ)で最も巨大で重要なフリーメイソンの高位階組織となっていました。
フリーメイソンの理念は「自由、平等、友愛、寛容、人道」です。
フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)が掲げる啓蒙思想と同じものです。
また、当初のイルミナティの思想も「啓蒙思想の光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)です。」
「lumen naturale(自然の光)」は超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味となります。
※「超自然的な偏見」とは、現在の自然科学では説明できない“超常現象”のようなことを、(合理的・科学的に説明しようとするならよいが、そうでないのに)闇雲に信じてしまうことや、いわゆる迷信を指します。
イルミナティの思想もフリーメイソンの思想もフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の掲げる思想も全て同じものです。
人が自由を謳歌し、他者を尊重し、そして幸せになること。
この時代のプロイセン(ドイツ)はライトサイドで多くの光で照らされていました。
ダークサイド ヘッセン
しかし、これを面白く思わない者がいます。
そう、ヘッセンです。
当時のヘッセン=カッセルの領主は、フリードリヒ二世(ヘッセン=カッセル方伯)(1720年-1785年)です。

ドイツ中部のヘッセン=カッセル方伯家は、昔から屈強なドイツ人を集め、訓練して傭兵に仕立てて各国に貸し出し、大金を稼いでいました。
それも、傭兵が死ねば死ぬほど、彼の儲けになりました。
グレイトブリテン&ハノーヴァー国王ジョージ三世(1738年-1820年)の義兄でもある当主フリードリッヒ二世方伯(1720年-1785年)は、「七年戦争」(1756年-1763年)で新大陸がまた戦争だというので、これまでの十万名に加え、さらに三万名の傭兵を掻き集め、新大陸正規軍に貸し出し、大いに利益を得ました。
ここにおいて、ハノーヴァー出身の俊才クニッゲ男爵(1752年-1796年)が、その腹心として事業拡大に活躍します。
引用元:近世ヨーロッパの思想と社会: 哲学とメイソンリーの時代(部分抜粋)
フリードリヒ二世(ヘッセン=カッセル方伯)は傭兵ビジネスで巨万の富を築いていました。
もともとヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世(五五歳)は、国教グレイトブリテンのジョージ三世(三七歳)や旧教オーストリアの女帝マリアテレジア(五七歳)と協調し、ルター派とカルヴァン派を繋ぐ新教君主として、ハノーヴァーやプロシア、ザクセン=ヴァイマール、ヴュルテンブルク、バィエルンなどを統一し、ドイツに反動的な絶対王政の「千年王国」を建設することを妄想していました。
引用元:近世ヨーロッパの思想と社会: 哲学とメイソンリーの時代(部分抜粋)
で、黄金薔薇十字団に資金提供していたのがフリードリヒ二世(ヘッセン=カッセル法伯)(1720年-1785年)です。
「古式黄金薔薇十字団」の黒幕だったヘッセン=カッセル方伯の息子ヴィルヘルム九世(43~即位85~1821、四四歳)もまた動き出し、フランクフルトに事務所を持つ「帝国郵便総監」トゥルン=タクシス公家が財政危機に陥っているのを聞きつけると、彼は、宮廷に出入りしていた同地出身の弱小銀行家マイヤーアムシェル=ロートシルト(四三歳)を送り込んで交渉に当たらせ、同公に大金を貸し付け、自分の配下に取り込んでしまいます。
これによって、オーストリア=神聖ローマ帝国の外交通信は、すべてヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム九世に筒抜けとなりました。
引用元:近世ヨーロッパの思想と社会: 哲学とメイソンリーの時代(部分抜粋)
※上記の『ヴィルヘルム九世』とは、下記のヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)、またはヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)のことです。
(6)ヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)、またはヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)※重要
出典:Wikipedia
デンマーク・ノルウェー王フレデリク5世の王女ヴィルヘルミーネ・カロリーネと結婚。父のフリードリヒ2世が死去したためヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世となり、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した。
また、ヴィルヘルム9世はロスチャイルド家の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトと1775年に知己を得、1801年から彼に財産の運用を任せるようになった。ロートシルトはこれを奇貨とし、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築いた。
1803年、ヘッセン=カッセル方伯に選帝侯の資格が与えられ、ヴィルヘルム9世はヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世となった。
ヴィルヘルム1世が死去すると、次男のヴィルヘルム2世が後を嗣いだ。
子女
・ヴィルヘルム2世(ヘッセン選帝侯)(1777年-1847年)→(7)へ
プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の王女アウグステ(1780年 – 1841年)と結婚。
※ヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)の息子(ヴィルヘルム2世)が、黄金薔薇十字団にハマったフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の娘と結婚していることもポイントです。
黄金薔薇十字団の目的は、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)によってもたらされた民主主義への道を反転させ、旧来の絶対権力の専制君主への道へ戻すことです。
反啓蒙主義です。時代に逆行する反動政策と言われることもあります。
そして、黄金薔薇十字団のビショッフスヴェルダーとヴォルナーらは幻灯機や手品などを駆使し、まやかしの降霊術を行いフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)の後継者であるフリードリヒ・ヴィルヘルム2世を惑わします。
すっかり洗脳されたフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、1781年に「黄金薔薇十字団」へ入会。
これにより、プロイセンにおける「黄金薔薇十字団」は多大な影響力を持つに至りました。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、次々と反啓蒙主義の反動政策を推し進めます。
結果、二大啓蒙主義雑誌である『ベルリン月報』と『ドイツ百科叢書』は一時プロイセンから退去せざるを得なくなりました。
また、哲学者のカントなども処分を受けています。
プロイセンは自由なディスカッションができない国となり、かつて『北のアテネ』と呼ばれたプロイセンの首都ベルリンからは自由闊達な様子は伺えなくなってしまいました。
さらに、ストリクト・オブザーバンツ、イルミナティもヘッセンに乗っ取られてしまいます。
ヴィヘルムスバート会議
この会議の出席者にボーデと、カール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯(1744年-1836年)がいます。
出典:Wikipedia
カール・フォン・ヘッセン=カッセル(Karl von Hessen-Kassel)
カール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯は、フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)(1720年-1785年)の息子でヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)(1743年-1821年)の弟です。
※フリードリヒ2世は、1775年にアメリカ独立戦争が勃発するとイギリスとの間に傭兵提供条約を結び、これによって莫大な収益をあげています。
※ヴィルヘルム9世は、フリードリヒ2世の莫大な資産を引き継いでいます。また、ロスチャイルド家の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトと1775年に知己を得、1801年から彼に資産の運用を任せるようになりました。
※カール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯は、「アジア秘儀入門騎士兄弟会」のグランドマスター。ドイツフリーメイソンのNo.2の立場にありました。不老不死の謎の人物サン・ジェルマン伯爵はこの運動の一員で、事実、サン・ジェルマン伯爵は1778年からカール方伯のもとに移り住み、カール方伯は伯爵の弟子となり後援者となりました。「アジア秘儀入門騎士兄弟会」は、黄金薔薇十字団の後継組織です。
ヴィヘルムスバート会議では、ストリクト・オブザーバンツのテンプル騎士団起源説と未知の上位者が否定される最終動議が採決されました。
そして、イルミナティに恵みを授けること。莫大な資産を保有するヘッセン=カッセルの実力者であるカール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯がイルミナティに加入することが決まりました。
又、当時のストリクト・オブザーバンツの中心地はヴァイマールでしたが、これに抗議したのがカール・フォン・ヘッセン・カッセル方伯です。
この抗議により、ストリクト・オブザーバンツはヴァイマールでの活動が認められなくなってしまいました。
これが決定打となり、ヴァイマールで育まれたフント男爵のストリクト・オブザーバンツの機能は失われました。
既にストリクト・オブザーバンツの人脈はボーデとクニッゲ男爵の働きにより、イルミナティへ流れていました。
テンプル騎士団起源説と未知の上位者の形式もイルミナティに引き継がれています。
イルミナティの実質的な推進者はボーデです。そして、ボーデの上司がクニッゲ男爵です。
実はこのクニッゲ男爵、ヴィヘルムスバート会議から遡ること11年前のヴァイマールで仕える以前の1771年に、ヘッセン・カッセル方伯の侍従並びに有事および内政についての上級公務員の任についています。
そこで、新大陸アメリカとイギリス本国の緊張が高まる中、ヘッセンのイギリスへの傭兵派遣の仕事に携わったりしています。
そして、クニッゲ男爵は兼ねてからフリーメイソンの指導者や黄金薔薇十字団の指導者と頻繁に文通を行なっていました。
このクニッゲ男爵こそが、ヘッセンの指令を受け、ストリクト・オブザーバンツ、イルミナティを掌握するために遣わされた使者でした。
また、ストリクト・オブザーバンツを骨抜きにしたシュタルクは後にヘッセンの下に付いています。
つまりシュタルクは、フント男爵の理想である民主主義をストリクト・オブザーバンツから取り除くために、ヘッセンが送り込んだ刺客なのです。
※教皇から破門されたイエズス会士を、ヘッセン・カッセルが黄金薔薇十字団というメーソン団体で囲い込んでいたようです。
これによりヘッセンは、民主主義なしバージョンのストリクト・オブザーバンツをイルミナティに形を変え、手に入れました。
これが陰謀論などで語られる悪の組織、イルミナティの起源です。
フリーメイソン、イルミナティ、薔薇十字団、イエズス会。
これらはオカルト満載の秘密結社ですが、その背後にいずれもヘッセンが君臨しています。
秘密結社は国際的なネットワークを持っています。
むしろ重要になるのは、その後のヘッセン=カッセル方伯とロートシルト家のネットワークの役割です。
というのも、反革命ー反ナポレオン戦争において、各国にその兵員と資金を供給し続けたのは、グレイトブリテンでもプロシアでもオーストリアでもなく、このネットワークにほかならないからでです。
それゆえ、ナポレオンは、一八〇六年のプロシア遠征においてまずカッセルを奪い、そのヴィルヘルムスヘーエ宮にヴェストファーレン王として末弟ジェロームを置きました。
しかし、このころすでに反ナポレオン戦争は、軍隊の戦争から経済の戦争にシフトしており、ロートシルト家は、ロンドン市の「シティ自治区」を拠点とするネイサン(1777年-1836年)を中心に、国際的な貿易と金融を自由に操作して、反ナポレオン諸国を支援し、ウィーン体制の確立にまで至らしめます。
しかし、このネットワークも、もはや多くの人々が参加する「メイソンリー」とはまったく異なるものです。
引用元:近世ヨーロッパの思想と社会: 哲学とメイソンリーの時代(部分抜粋)
どうしても歴史を見る時に国単位で見てしまいがちですが、国単位で見てしまうと真相から視線をずらされてしまいます。
人の繋がりを見なければ、本当の歴史は繋がりません。(人で見るのは骨が折れますが・・・。)
以上、黄金薔薇十字団のお話でした。
オカルト満載の秘密結社フリーメイソン、イルミナティ、薔薇十字団の元締めはヘッセンであることもご理解頂けたかと思います。
次回は、ヘッセンが薔薇十字団を通じてフリーメイソンやイルミナティを乗っ取った後のプロイセンについて触れていきます。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
それでは。また。
おち
参考:黄金薔薇十字団への序奏
参考:雲上の覇権闘争 〜ロスチャイルドの主人「ヘッセン家」〜
次の記事→プロイセン ヘッセンとナポレオンの攻防 メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 ケルン”【後編】
※アイキャッチ画像は、くろもり @crmo2018 さんの作品です。お借りさせて頂きました。