こんにちは。おちです。
前回の プロイセン 黄金薔薇十字団の黒幕ヘッセン メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 ケルン”【中編】 では、黄金薔薇十字団のお話とその黒幕であるヘッセンがいかにフリーメイソンやイルミナティを乗っ取り、国際ネットワークを掌握していったかをお話させて頂きました。
今回のお話は、その後のプロイセンです。
フランス革命戦争やナポレオン戦争の時代、いやでもナポレオンが絡んでくることになります。
そして、今回もライトサイドとダークサイドのキアスム(絡み合い)が、より大きなやまを生み出していることが分かるでしょう。
それは歴史のダイナミズム。
ホントの歴史を知るといろんな話が繋がり、一本の筋が通った物語になります。
一本の筋が見えると現代社会の支配構造も紐解くことができるようになります。
支配構造を紐解くことができるならば、現代の社会が「なぜ、そのようになっているのか」の本質も見えてくるのではないでしょうか。
私が目指すところは、歴史に一本の筋を通すことです。
そして、このブログを読んで頂いた方に一本の筋を理解して頂き、現代社会の本質を見極める目を養って頂く事です。
それでは始めます。
ダークサイド 千年王国(NWO)の野望、フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)
フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)(1760年-1785年)は千年王国(NWO)の野望を持っていました。
※千年王国とは、キリスト教終末論のことでいわゆる黙示録(アポカリプス)です。アポカリプスについては BABYMETAL 黙示録 APOCALYPSE(アポカリプス) を参照。

ヘッセンは、フリーメイソン、イルミナティなどの秘密結社を乗っ取ることで国際ネットワークを掌握しています。
ちなみに聖堂騎士団(テンプル騎士団、ドイツ騎士団)もヘッセンが乗っ取っています。
※マルタ騎士団は別途、要調査。今のところヘッセンが抑えていると予想しています。ただ詳細情報を捉えていないので今後の課題とします。
「聖堂騎士団」の団長ブラウンシュヴァイク公フェルディナント(五九歳)らは、あいかわらず「知られざる上官」の探索を行っていました。
そこで、ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ二世(五七歳)らは、七七年、イタリアで団員のヴェルテンベルク王国顧問官ヴェヒターにいつものインチ霊媒術を披露し、聖堂騎士団の「知られざる上官は」薔薇十字団にほかならない、と預言しました。
探索員はもちろん、その報告を聞いた団長フェルディナント公もこれを本気で信じました。
ここへ彼らが乗り込み、とうとう「聖堂騎士団」を乗っ取ってしまいます。
引用元:近世ヨーロッパの思想と社会: 哲学とメイソンリーの時代(部分抜粋)
ブラウンシュヴァイク公フェルディナント
Wikipedia-フェルディナント (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯子)-
フリーメイソン
ブラウンシュヴァイク公フェルディナントは1740年、義兄のフリードリヒ2世によってフリーメイソンのロッジに迎えられている。
※フリードリヒ2世=フリードリヒ大王
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領においては1770年以降、イギリスのプロヴィンシャル・グランド・マスターであり、翌年にシュトリクテ・オプザーヴァンツへ加入している。
※シュトリクテ・オプザーヴァンツ=ストリクト・オブザーバンツ
彼は1772年、コーロの評議会でスコットランドにおける全てのロッジのグランド・マスターに就任した。
そして1782年7月16日から9月1日まで続くヴィルヘルムスバートのフリーメイソン評議会を招集するが、これは最終的にシュトリクテ・オプザーヴァンツの解散に繋がる。
また1783年にはヘッセン=カッセル方伯カールと同じくイルミナティの一員となり、1786年以降はアジア兄弟団最高位のグランド・マスターであった。
※アジア兄弟団=アジア秘儀入門騎士兄弟会
前回、プロイセン 黄金薔薇十字団の黒幕ヘッセン メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 ケルン”【中編】 でお話しさせて頂いた流れと同じですね。
黄金薔薇十字団の後継組織アジア秘儀入門騎士兄弟会
ちなみにアジア秘儀入門騎士兄弟会の後継組織に東方聖堂騎士団(O.T.O)があります。
東方聖堂騎士団といえば、アレイスター・クロウリーですね。
東方聖堂騎士団は薔薇十字団ということです。
現代におけるイルミナティのルーツがここにあります。
聖堂騎士団を薔薇十字団が乗っ取る
また、啓蒙専制君主のフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)(1712年-1786年)はホーエンツォレルン家です。
ホーエンツォレルン家はドイツ騎士団です。
※詳しくは プロイセン ケルン大聖堂とドイツ騎士団 メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 ケルン”【前編】 を参照。
フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)はプロイセン宮廷内にフリーメイソンロッジ「三つの地球」を創っています。
ドイツでもプロイセンのフリードリヒ二世(後のフリードリヒ大王)がメイソンに加入すると、ドイツ独自の「三つの地球」ロッジを作り、その教義に介入し始めた。(1740年)
「三つの地球」は中世の聖堂騎士団の後継者を目指していた。とは言っても、カトリックではなくルター派とカルヴァン派を統合したプロテスタントの聖堂騎士団を目指していたのである。
しかしここに二つの異分子が潜入し始める。
イエズス会とイルミナティである。
イエズス会はこの頃、スペイン国家の凋落から信用を失い、スペインでもフランスでも解散を命じられていた。
このイエズス会の残党が多く加入していたのが「古式黄金薔薇十字団」である。(1774年)
イエズス会の残党は二つの目的で薔薇十字団に潜入した。一つは「三つの地球」ロッジをカトリックに改宗させるためであり、もう一つはプロテスタントと共同して、共通の敵、啓蒙主義に対抗するためである。(啓蒙主義は、当時は革命運動の別名だった)
「三つの地球」はその上に上位団体として「聖堂騎士団」が乗る形になっていたが、次第に薔薇十字団に取って代わられていく。
※補足:「三つの地球」とはフリーメイソンのロッジの一つです。
この「古式黄金薔薇十字団」を財政面で支えたのがヘッセン=カッセル方伯、フリードリヒ二世である。彼は領内の屈強な若者を集めて軍事訓練を施し傭兵隊として他国へ貸し出す傭兵事業をやっていた。
この薔薇十字団と傭兵事業の関係は現代の「マルタ騎士団」に継承されている。イラク戦争で一躍有名になった「ブラックウォーター」など英米の民間軍事会社の幹部はそのほとんど全員がマルタ騎士団員である。
ここでいう聖堂騎士団にテンプル騎士団とドイツ騎士団が含まれます。(恐らくマルタ騎士団も)
聖堂騎士団は黄金薔薇十字団に乗っ取られました。
そして、黄金薔薇十字団の黒幕は資金提供していたフリードリヒ2世ヘッセン=カッセル方伯です。
イエズス会をヘッセンが囲い込む
さらに黄金薔薇十字団にはフリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)によって追放されたイエズス会の残党が囲い込まれていました。
イエズス会とは、バチカン(カトリック)の諜報部隊です。
イエズス会の残党が黄金薔薇十字団に入り込んだ目的は、フリーメイソンをカトリック化すること。
フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)は、カトリック(正:テーゼ)とプロテスタント(反:アンチテーゼ)の弁証法を駆使して、二元論を超えたポジション(合:ジンテーゼ)に居座るつもりでした。
※弁証法は、まさにキアスム(絡み合い)。キアスムについてはこちらで語っています。 BABYMETAL 新曲!!Distortion
「合:ジンテーゼ」が統一思想の千年王国(NWO)です。
正反合の三角形、つまりピラミッドシステムです。

ヘッセンの夢、千年王国(NWO)
そして、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(プロイセン王)(1744年-1797年)は黄金薔薇十字団にハマります。
カトリックに染まった黄金薔薇十字団の影響により、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は啓蒙思想の民主主義とは真逆の反動政策(絶対王政へ立ちかえる政策)をプロイセンで進めます。
プロイセンはフリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)の思惑通りに事が進みました。
フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)の夢は、黙示録に沿った形の千年王国(NWO)の樹立です。
※以前、 ロスチャイルドの夢 千年王国(NWO) の記事を書きましたが実はこれ、ロスチャイルドの夢ではなくヘッセンの夢なのでした。
そして、フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)は1785年に亡くなり、その夢を引き継いだのが、ヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)(1743年-1821年)です。

ヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)がロスチャイルドを見出した人物です。
国際金融資本が経済支配で世界を牛耳る原点(ヴェルヴェット・ファシズム)
で、ロスチャイルドのデビュー戦でもあるフランス革命(1789年)。
このフランス革命の黒幕にヘッセンがいることは フランス革命 ロスチャイルドのデビュー戦 メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 パリ“【後編】 で語らせて頂きました。
ヘッセンの傭兵ビジネスで儲けた潤沢な資金はロスチャイルドなどのユダヤ人銀行家によって運用されます。
その運用先の一つとして、表看板の市民の代表者である革命家に資金提供すること。
お金で縛り、実質的に支配します。
表看板に市民の代表者⇒仲介役としてロスチャイルドなどのユダヤ人銀行家⇒銀行の原資は王族のヘッセン。
現代に続くユダヤ人銀行家を使ってのヴェルヴェット支配を確立した原点がフランス革命です。
※ヴェルヴェット支配とはヴェールの裏に隠れて支配すること。
このヴェルヴェット支配の仕組みを私はピラミッドシステムと呼んでいます。
頂点にプロビデンスの目です。

ライトサイド ナポレオン・ボナパルト
フランス革命(1789年)の時代。フランスとプロイセンはダークサイドであるヘッセンの千年王国(NWO)の野望に飲み込まれていきました。
しかし、その流れに待ったをかける人物が現れます。
ナポレオン・ボナパルト(1769年-1821年)です。

ナポレオンが登場するのはフランス革命戦争(1792年-1802年)です。
フランス革命戦争
フランス革命戦争は、オーストリアの神聖ローマ皇帝レオポルト2世(1747年-1792年)とプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744年-1797年)が共同で発したピルニッツ宣言がキッカケで起こりました。
ピルニッツ宣言とは、フランス国王(ブルボン家)の地位を回復させなければ、フランスに対して宣戦するというもの。
これは、フランス革命政府を激怒させます。
そして、フランス革命政府はオーストリアに対して宣戦布告。
フランス革命戦争(1792年-1802年)が勃発しました。
フランス革命戦争の交戦勢力は下記のとおりです。
- フランス共和国(フランス革命政府、黒幕にロスチャイルド、ヘッセン家)
vs
- 神聖ローマ帝国(オーストリア、ハプスブルク家)
- プロイセン王国(ドイツ、ホーエンツォレルン家、ヘッセン家)
- グレートブリテン王国(イギリス、ヘッセン家、オラニエ=ナッサウ家)
- フランス王党派(フランス、ブルボン家)
- スペイン王国(スペイン、ブルボン家)
- サルデーニャ王国(イタリアのサルデーニャ島、サヴォイ家)
緒戦のフランスは革命によって軍の機構も混乱していたため、統率がとれず敗戦が続きます。
また、ブルボン家(フランス)のマリー・アントワネットによってフランス軍の作戦が神聖ローマ帝国やプロイセンに流されるなど、戦況は厳しいものでした。
※マリー・アントワネットは神聖ローマ帝国(オーストリア、ハプスブルク家)のマリア・テレジアの娘。
しかし、この状況をフランス革命政府は「祖国は危機にあり!」と呼びかけ、義勇兵を募って何とか持ちこたえていました。
※この時の義勇兵が歌った軍歌が後に「ラ・マルセイエーズ」と名づけられ、現在のフランス国歌になっています。
このような状況の中、フランス革命政府や国民の怒りは神聖ローマ帝国やプロイセンに味方したブルボン家のマリー・アントワネットとルイ16世に向けられます。
そして、裁判によってマリー・アントワネットとルイ16世は、ギロチンで処刑されてしまいます。
王が国民の手によって処刑される。
この前代未聞の出来事は、ヨーロッパ中に大きな衝撃を与えることになりました。
第一次対仏第同盟
その衝撃はスペイン(ブルボン家)、オランダ(オラニエ=ナッサウ家)、ナポリ王国(ブルボン家)、サルデーニャ王国(サヴォイ家)、さらにはそれまで市民革命に同情的であったイギリス(ヘッセン家、オラニエ=ナッサウ家)すら反革命側に立たせます。
そして、イギリスを中心とした第一次対仏大同盟(1793年-1797年)が結成されます。
第一次対仏大同盟に参加した諸国
- グレートブリテン王国(イギリス、ヘッセン家、オラニエ=ナッサウ家)
- 神聖ローマ帝国(オーストリア、ハプスブルク家)
- プロイセン王国(ドイツ、ホーエンツォレルン家、ヘッセン家)
- ナポリ王国(イタリア、ブルボン家)
- スペイン王国(スペイン、ブルボン家)
- サルデーニャ王国(イタリアのサルデーニャ島、サヴォイ家)
フランスは囲まれてしまいました。
再び連敗に次ぐ連敗。
フランス革命政府は、崩壊寸前のぎりぎりの状況まで追い込まれます。
絶対絶命のピンチ。
歴史上初となる国家総動員(徴兵制)
しかし、フランス革命政府はこの危機的な状況をある秘策で乗り越えます。
それが、歴史上初となる国家総動員(徴兵制)です。
これによって集められた国民の数は約120万、これは傭兵を主力としていた君主制国家では想像できないほどの大兵力です。
そして、この大兵力は国民軍へと変貌を遂げ、フランスは反撃に転じます。
フランス軍は手始めにオランダへ侵攻。
オランダの都市を次々と陥落させ、占領してしまいます。
ウィレム5世(オラニエ公)(1748年-1806年)は、たまらずイギリス(ヘッセン家、オラニエ=ナッサウ家)へ逃亡。
で、この巨大化したフランス軍を指揮した一人にナポレオンがいます。
ナポレオンの背後には・・・。誰もいません。(笑)
ナポレオンはナポレオンです。
むしろナポレオンはロスチャイルドやヘッセンの動きを察していた向きがあります。
ナポレオンの進撃
まず、ナポレオンはフランス革命政府によってイタリアに派遣されます。
そこでナポレオンはサルデーニャ王国(サヴォイ)をわずか1か月で降伏させます。
さらにナポレオンはその勢いのまま神聖ローマ帝国(オーストリア、ハプスブルク家)へ進撃、連戦連勝を重ね、神聖ローマ帝国とカンポ・フォルミオ条約(1797年)を結びます。
この条約により第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土(ハプスブルク家の領土)を獲得して、いくつもの衛星国(姉妹共和国)を建設し、膨大な戦利品を得ました。
パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもってフランス国民に迎えられています。
しかし、制海権を握っているイギリスに対してフランスは打撃を与えられずにいました。
そこでナポレオンは、イギリスとインドとの連携を絶つため、オスマン帝国領エジプトへの遠征を総裁政府に進言します。
そして、1798年にナポレオンの率いるエジプト遠征軍はトゥーロン港を出発。
途中マルタ島を占領し、7月2日にエジプトのアブキール湾に上陸します。
ナポレオンは、ピラミッドの戦いでオスマン帝国軍に勝利しましたが、ナイルの海戦においてはネルソン率いるイギリス艦隊に大敗し、エジプトで孤立してしまいます。
第二次対仏第同盟からのブリューメルクーデター
そんな中、再びイギリスの呼びかけにより第二次対仏大同盟が結成され、フランス本国も危機に陥ります。
第二次対仏大同盟に参加した諸国
・グレートブリテン王国(イギリス、ヘッセン家、オラニエ=ナッサウ家)
・神聖ローマ帝国(オーストリア、ハプスブルク家)
・ロシア帝国(ロシア、ロマノフ家)
・オスマン帝国(トルコ、オスマン家)
・ブルボン家
※プロイセンはフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が既に1797年に死去しており、息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770年-1840年)が引き継いでいます。
1799年にはオーストリア(ハプスブルク家)にイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていました。
これを知ったナポレオンは、自軍をエジプトに残したまま側近のみをつれ、単身フランス本土へ舞い戻ります。
当時のフランス本国はフランス革命によって混乱していました。
ジャコバン派のロベスピエールのとったテロリズム(恐怖政治)は、フランスの人々の不満は最高潮。
そして、ナポレオンのエジプト遠征(1798年)の4年前、1794年にテルミドールのクーデターが起こります。
テルミドールのクーデターによってロベスピエール一派はギロチンで処刑され、国民公会の変わりに総裁政府が成立(1795年)されました。
しかし、総裁政府は体制が不安定であり、シェイエスやエジプトから舞い戻ったナポレオンらによって、ブリュメールのクーデター(1799年)を起こされ、とってかわられます。
ナポレオンはこの軍事クーデターによって実権を握り、執政(統領)政府を樹立。
自ら第一執政(統領)となりました。
第一執政(統領)ナポレオンとヘッセン選帝侯になったヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)
これがキッカケとなり、フランス革命は幕を閉じます。
統領となったナポレオンは、第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破するために、オーストリア(ハプスブルク家)からイタリアを再び奪い返すべくイタリアへ進撃します。
そこでオーストリア軍と対峙し、勝利を重ねました。
合せてドイツ方面のオーストリア軍にも勝利し、リュネヴィルの和約(1801年)でナポレオンは、ライン川の左岸をフランスに割譲、北イタリアなどをフランスの保護国としました。
これにて第二次対仏大同盟は崩壊し、フランス(ナポレオン)となおも交戦するのはイギリス(ヘッセン家、オラニエ=ナッサウ家)のみとなりました。
イギリスは単独でフランスと交戦する気はなく、フランスも国内安定に向けて舵を切ったため、イギリスとフランスとの間でアミアンの和約(1802年)が結ばれました。
ここでフランス革命戦争は終結を迎えます。
同時期(1803年)のプロイセンでは、ヘッセン=カッセル方伯のヴィルヘルム9世がヘッセン選帝侯に昇格し、ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)になっています。
Wikipedia-ヘッセン=カッセル方伯領-
1803年のドイツ領邦の陪臣化に伴ってドイツ諸国家が再編されていく中で、ヘッセン=カッセル方伯はヘッセン選帝侯に昇格し、方伯ヴィルヘルム9世は選帝侯ヴィルヘルム1世となった。
新しく成立した選帝侯領は「クーアヘッセン」(Kurhessen)とも呼ばれたが、一般的には以前の呼称であるヘッセン=カッセルで呼ばれていた。
※ドイツ領邦の陪臣化とは、帝国代表者会議主要決議のことで、実質的な神聖ローマ帝国の崩壊を意味し、帝国に属していた領主がその権力を剥奪されたものになります。
神聖ローマ帝国に属していた各領主に取って代わってヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)は、神聖ローマ帝国皇帝を選定できる特権を得ています。
ナポレオンが勢力を拡大していく影でヘッセンも着実にその勢力を伸ばしていました。
皇帝ナポレオンの誕生
で、ナポレオンは1804年に国会の議決と国民投票を経て皇帝の地位につきます。
民主主義的に国民投票で選ばれたナポレオンは「フランス人民の皇帝」として君臨します。
通常、皇帝に就く際にはローマ教皇より王冠を授けられるのですが、ナポレオンはローマ教皇のいる目の前で自らの手で王冠をかぶりました。

これは、ナポレオンの政治の支配のもとに教会をおくという意志のあらわれです。
LEGEND ‘ THE CORONATION ‘ http://t.co/rgyWpuM7EA pic.twitter.com/WQAq12Hn6S
— hirokazu sato (@hiro_kazu_sato) 2014年6月20日
※@hiro_kazu_satoさんのイラストは大変人気です。このイラストは、ソニスフィア公演が発表された直後に頭に浮かんだ情景だとか。ナポレオンの戴冠式のオマージュとのこと。やはりBABYMETALは、歴史の深いところでインスピレーションを与える何かがありそうです。それにしてもクオリティがハンパないですね♪
このナポレオンの挑戦的な態度に各国が反発。
各国は反ナポレオン体制を敷きます。
イギリス(ヘッセン家、オラニエ=ナッサウ家)がアミアンの和約を破棄、ナポレオン戦争(1803年-1815年)が勃発します。
第三次対仏第同盟と第四次対仏大同盟、ヘッセンとナポレオンの攻防
そしてオーストリア(ハプスブルク家)、ロシア(ロマノフ家)などを引き込んで第三次対仏大同盟を結成(1805年)。
ネルソン率いるイギリス艦隊はトラファルガーの海戦(1805年)にて、フランススペイン艦隊を完全に粉砕しました。
しかし、陸ではナポレオンが圧倒的な力を見せつけ、第三次対仏大同盟を粉砕(1806年)。
すぐさま今度はプロイセンが中心となって、第四次対仏大同盟を結成(1806年)。
ただ、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1770年-1840年)は、優柔不断な性格で王という役割には向いておらず、施策はぐずぐずで勢いづいたナポレオンにボコボコにされてしまいます。
実はこれら反ナポレオン体制の対仏大同盟の黒幕にヘッセンがいました。
そして実行部隊がロスチャイルドです。
しかし、ナポレオンはこれを見抜いていた可能性があります。
ナポレオンが第四次対仏大同盟を結成された際に真っ先に進軍したのは、プロイセン(ドイツ)のカッセルです。
むしろ重要になるのは、その後のヘッセン=カッセル方伯とロートシルト家のネットワークの役割です。
というのも、反革命ー反ナポレオン戦争において、各国にその兵員と資金を供給し続けたのは、グレイトブリテンでもプロシアでもオーストリアでもなく、このネットワークにほかならないからでです。
それゆえ、ナポレオンは、一八〇六年のプロシア遠征においてまずカッセルを奪い、そのヴィルヘルムスヘーエ宮にヴェストファーレン王として末弟ジェロームを置きました。
しかし、このころすでに反ナポレオン戦争は、軍隊の戦争から経済の戦争にシフトしており、ロートシルト家は、ロンドン市の「シティ自治区」を拠点とするネイサン(1777年-1836年)を中心に、国際的な貿易と金融を自由に操作して、反ナポレオン諸国を支援し、ウィーン体制の確立にまで至らしめます。
しかし、このネットワークも、もはや多くの人々が参加する「メイソンリー」とはまったく異なるものです。
引用元:近世ヨーロッパの思想と社会: 哲学とメイソンリーの時代(部分抜粋)
Wikipediaにもヘッセン『ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)』が各国を支援していたことが伺える記述があります。
1806年、ヴィルヘルム1世はプロイセン王国を支援した罰としてナポレオンに領国を没収され、カッセルはナポレオンの末弟ジェローム・ボナパルトが統治する新国家ヴェストファーレン王国の首都になった。
ヴィルヘルム1世はナポレオンが失脚した1813年に復位することができた。
この時には既に神聖ローマ帝国が消滅していたが、ヴィルヘルム1世は選帝侯の称号のままで通し、ヘッセン大公の称号を得た旧ヘッセン=ダルムシュタット方伯の下位に甘んじた。
1815年以後、ヘッセン選帝侯国はドイツ連邦に参加した。

ヘッセン=カッセルはナポレオンの侵攻によって、あっという間に占領されてしまいます。
ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)は、ユトランド半島のシュレースヴィヒ公国(現在のデンマークとドイツの境目)へ亡命。
ロスチャイルドのファインプレー、そして世界一の金融王へ
ヘッセンの莫大な資産がナポレオンに奪われるところをマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド1世)はフランス当局の目を盗んで各地を駆け巡り、ヴィルヘルム1世の元へ資産を送り届けていました。
また、ロスチャイルド1世はロスチャイルド家に投資信託することをヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)に提案し承認を得ます。
これがキッカケとなりロスチャイルドはヘッセンの資産を管理する立場に取り上げられ、後に「世界一の金融王」として君臨することとなります。
ヴィルヘルムは1785年10月31日に父のフリードリヒ2世が死去したためヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世となり、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した。
また、ヴィルヘルム9世はロスチャイルド家の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトと1775年に知己を得、1801年から彼に財産の運用を任せるようになった。
ロートシルトはこれを奇貨とし、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築いた。
で、ロスチャイルド1世はその莫大な資産をロンドン(イギリス)のシティに集めました。
※この資産が、世界一の国際金融市場『シティ・オブ・ロンドン』の礎となります。
※フランクフルトは、現在の国際金融の中心地であり、工業や産業の中心でもあり、経済的側面から世界都市の一つに数えられています。この資産もヘッセンです。
●ロスチャイルド家の公式な歴史は、1744年にドイツのフランクフルトで生まれた、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド1世)の活動とともに始まっている。
彼は少年時代にユダヤ教のラビとして教育され、商人であった父親からは商売を仕込まれた。彼は最初、ハノーバーの「オッペンハイム銀行」に見習いで入ったが、やがて独立して両替屋である「フランクフルト・ロスチャイルド商会」を営んだ。
26歳の時に、フランクフルトの領主であるヘッセン侯爵家のウィリアム皇太子(のちのウィリアム9世)に金貨を売ったことがきっかけで“御用商人”に登録され、そのうちにヘッセン侯爵家の財政や国際的な資金調達の仕事に深くかかわるようになり、「宮廷のユダヤ人(ホフ・ユーデン)」の一人となった。
●ロスチャイルド1世は非常にラッキーマンであった。1785年にヘッセン侯爵が亡くなると、その子ウィリアム9世は4000万ドルもの財産を相続した。これは当時のヨーロッパで最大の私有財産と言われている。さらにウィリアム9世は、自国の国民を全ヨーロッパの君主に「傭兵」として貸し付け、莫大な富に莫大な利益を加算させていった。
1801年、ロスチャイルド1世はヘッセン侯爵家の「銀行事務弁理人」に任命され、当時のヨーロッパ最大の資本国の金庫の管理を任されたのである! さらに、1806年にナポレオン1世のヨーロッパ遠征が始まると、フランクフルトのウィリアム9世は領土を放棄しなければならなくなったのだが、その時に、その巨万の財産を安全に保管するようロスチャイルド1世は命じられて、彼はそれを安全地帯であるロンドンに送って息子に管理させることとなった。このヘッセン侯爵家の財産こそロスチャイルド家の巨万の富の出発点となったのである。
※補足:フランクフルトはヘッセン州の経済の中心主要都市です。1800年代はヘッセン=カッセル方伯領でした。
●ロスチャイルド1世には5人の息子がいたのだが、それぞれをヨーロッパ列強の首都に派遣して次々と支店を開業させ、それぞれがロスチャイルドの支家となった。
三男ネイサン(ロスチャイルド2世)は1804年にロンドンに派遣され、そこで支店「ロンドン・ロスチャイルド商会」を出した。次男サロモンはウィーンに、五男ジェームズはパリに、四男カールはナポリに支店を開業し、長男アムシェルはフランクフルト本店に残った。
彼ら5人の息子はそれぞれの国の政府と癒着して“貴族”の称号を得て、政治的にも活躍し、今日の“ロスチャイルド金権王朝”の基礎を作ったのである。
●パリの五男とウィーンの次男は協力して、ヨーロッパ全体をカバーする通信と馬車輸送のネットワークを作り上げた。そしてそこから誰よりも早く得られる情報を利用して、ロンドンの三男が金や通貨の投機をして大儲けするという兄弟ならではの連携プレーをし、今日の“多国籍金融ビジネス”の原型を作り上げた。
※補足:通信と馬車輸送のネットワークは、オーストリア(神聖ローマ帝国)の「帝国郵便総監」のタクシス家をヘッセンがロスチャイルドに指示し、大金を貸付けヘッセンの配下に組み込んだことが背景にあります。
また、1810年にロンドン証券取引所の支配者フランシス・ベアリングが亡くなると、ロンドン支店の三男が新しい支配者となり、「世界一の金融王」として台頭した。
オーストリア(神聖ローマ帝国)の「帝国郵便総監」とヘッセンの繋がりについては下記が参考になります。
「古式黄金薔薇十字団」の黒幕だったヘッセン=カッセル方伯の息子ヴィルヘルム九世(43~即位85~1821、四四歳)もまた動き出し、フランクフルトに事務所を持つ「帝国郵便総監」トゥルン=タクシス公家が財政危機に陥っているのを聞きつけると、彼は、宮廷に出入りしていた同地出身の弱小銀行家マイヤーアムシェル=ロートシルト(四三歳)を送り込んで交渉に当たらせ、同公に大金を貸し付け、自分の配下に取り込んでしまいます。
これによって、オーストリア=神聖ローマ帝国の外交通信は、すべてヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム九世に筒抜けとなりました。
※補足:ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム九世 = ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)
引用元:近世ヨーロッパの思想と社会: 哲学とメイソンリーの時代(部分抜粋)
まとめ
以上がプロイセンを舞台にしたダークサイドのヘッセンとライトサイドのナポレオンの攻防についてです。
ヘッセンはフリーメイソン、イルミナティ、黄金薔薇十字団や聖堂騎士団など秘密結社を乗っ取ることで国際ネットワークを形成していました。
その資金源となったのが傭兵ビジネスです。
傭兵が死ねば死ぬほどヘッセンは莫大な利益を手にしていました。
ヘッセンの野望を打ち砕くべくナポレオンが奮闘しましたが、最終的にワーテルローの戦い(1815年)でナポレオンはイギリス、オランダ連合軍とプロイセンに敗れています。
イギリスとオランダとプロイセンはいずれもヘッセンです。
そして、このワーテルローの戦いでロスチャイルドが巨大な富を得たのはとても有名な話ですね。
ワーテルローの戦いの帰趨はロンドンの株式市場も注視しており、カトル・ブラの戦いの敗報によってコンソル公債は下落していたが、ワーテルローの勝報をいち早く手に入れた銀行家ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはすぐに買いを入れずに意図的に公債を投げ売りして暴落させ、二束三文になったところで大量買いをし、そして公式な報道により大暴騰した。
後に「ネイサンの逆売り」と呼ばれる株式売買でロスチャイルド家は巨額の利益を獲得した。
ナポレオン戦争の時代から戦争は軍隊の戦争から経済の戦争にシフトしています。
つまり、戦争はビジネスに変わりました。
ヘッセンは弁証法のテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼの正反合を駆使し、二つの対立軸(正と反)を用意し背後でコントロールし果実(合)を得る。
これがヘッセンのビジネスモデルの基礎です。
それは一昔前の冷戦時代のアメリカとソ連の対立も同じ構造でした。
「戦争によって傭兵が死ねば死ぬほど利益を得る」
現代に置き換えれば「戦争によって兵器が消費されればされるほど利益を得る」といったところでしょうか。
戦争が起きれば自ずとヘッセン陣営の懐に富が蓄積されます。
戦争によって人の生命が奪われることなんてお構いなし。
そして、国という対立軸があるから戦争が起きるということを謳います。
最終的に国をなくし世界統一政府を作り上げること。
千年王国(NWO)の樹立がヘッセンの狙いです。
それも黙示録(アポカリプス)に沿った形で実現させる。
馬鹿げていますが、ヘッセン陣営はマジで狙っているから困ったものです。
昨今の日本人が嫌韓となるようにマスメディアを使って煽っているのもこの流れです。
それは東アジアで事を起こそうとしている向きがある。
第三次世界大戦となるように。
くれぐれも我々は巨大勢力アイドル(電通)が繰り出すマスメディアという魔術にハマらないように注意しなければなりません。
人は簡単に洗脳されます。
特に映像はイチコロで洗脳されてしまいます。
できるだけニュース、報道からは離れた方が良いでしょう。
見ても良いのですが、無防備で見てはいけません。
意識的に構えてみる姿勢が重要になります。
・・・
だいぶ長くなってしまいました。
以上で『WORLD TOUR 2014 ケルン』が終了となります。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
おち
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※アイキャッチ画像は、くろもり @crmo2018 さんの作品です。お借りさせて頂きました。