こんにちは。おちです。
今回のお話しはプロイセン(ドイツ)です。
と、その前に・・・。
BABYMETAL WORLD TOUR 2014(Live Music Hall)【ケルン】
BABYMETALは初のワールドツアーの初日であるフランスでの公演を大成功させました。
その2日後の2014年7月3日。
BABYMETALはフランスでの成功の勢いのまま、隣国であるドイツ(ケルン)へと攻め込みます。
この頃のBABYMETALはまだ殆ど認知されておらず、海外においても見た目の印象(ロリコン、ペド)から、否定的な意見を持つ人も多くいました。
こちらの記事は当時のBABYMETALを初めて見た人の心境をよく表しています。
Facebookのファンページの一つに載ってたケルンのコンサートに足を運んだオランダ人男性の感想
さらっと読もうとしたらなんか心打たれたので訳してみました
https://www.facebook.com/groups/ BABYMETALWORLDWIDE みんなも知ってるとおり、ネット上にはBABYMETALを嫌う声がたくさんある。
「あいつらはニセモノだ」「奇妙だ」「メタルじゃなくね?」「本当のコンサートは出来ないんだろ」
「ナマで歌ってない」「西側の聴衆は甘くないぞ」「あいつらを好きなのは友達がいない男達と小児性愛者だけだ」。さて、私は自分自身にBABYMETALの真実を確かめる役割を課した。
君たちにこのメッセージを伝えたい。
「嫌う者を信じるな。奴らは間違っている。君たちがこのグループに望んでいること、それこそが真実だ」と。私のこのコンサートに対する期待はとても高かった。私はネット上の動画はパリ公演も含め全て視聴していた。
今回明らかになったのは…BABVMETALのライブのサウンドはまったくこれらの動画のようではないということ。
それらよりはるかに「良かった」んだ。彼女たちは凄まじくヘビーなサウンドをしていた。
グループは手の込んだライティングも仕掛けもなく、非常に小さいステージでプレイした。
私は言いたい。彼らはそんなもの必要ないほど良かった。BABYMETALはライブにおいてまさに「最強」だった。
彼女たちは非のうちどころがなかった。女の子たちはナマで歌った。勢いは容赦なかった。
最愛と由結は尽きることのないエネルギーを持ち、完璧に踊り、ビートを踏み外すことは一度もなかった。
すぅはパワフルな声を持ち、彼女のステージでの存在感は圧倒的だった。
会場は満員で、多くのドイツ人以外のファンが彼らのヒーローを観るために遠い所からやって来ていた。
コンサートには女の子も山のようにいた。その熱気は天井を突き抜けるほどだった。コンサートは映像でスタートした。BABYMETALがキツネ様に選ばれてメタルレジスタンスがどうこうして…
といういつもの感じだ、わかるだろ?
その後白い幕が落とされ、「BABYMETAL DEATH」が始まり、聴衆は弾丸のような衝撃を受けた。
それはまさに「カワイイの大君主」が地球に降りてきて彼女たちの支配を打ち立てたかのようだった。全てが有り余るほどの衝撃だった。コンサートは熱狂の渦で、全てのものが一つの巨大な塊となっていった。
とても暑く、人々は右も左も倒れそうになり、ほとんどの時間私は地に足がつかないような状態と戦い、空気にありつこうとしていた。
最初の4曲では私はステージをまったく見ることができず、幸い何人かが脱落して二つ目の列にたどり着き、少しはマシな状態になった。私の主な印象だが。
― 驚くべきことに、神バンドは楽器を完璧に演奏できるとはいえ普通の人間のように見えた。
彼らは微笑を何度も漏らし、聴衆との呼吸も絶妙だった。そう、彼らは実に素晴らしかった!
― それとは対照的に、女の子たちはまったくそこらへんの十代の女の子には見えなかった。
最愛と由結はアニメのヒロインが人間になったように見えた。
彼女たちは尽きることのないエネルギーを持ち、パーフェクトに踊り、ビートを踏みはずすことがなかった。
すぅはこれまでのコンサートより微笑を浮かべてはいたが、それは自信と喜びに満ちた女王が臣民に与えるような笑みだった。
彼女はまさにメタルの女神としてステージを支配していた。
― コンサートが進むにつれ会場全体が燃え上がっていったが、女の子たちは泰然としていたように見えた。
あなたが神に多くの祈りを捧げる人ならこの感じ、わかるだろう?個人的なハイライト:
― オープニングの「デス・デス・デス」。
―「紅月」「悪夢の輪舞」ですぅがパワフルな声とステージでの存在感を見せつけたこと。
― 最愛が勝利者のようにマイクを高く掲げた誇り高き姿。
― 少女たちがお立ち台の上に立ち微笑みながら声を振り絞り「We are Babymetal!」と叫んだコンサートの最後の瞬間。
その時だけは彼女たちは自らの夢のために生きる、普通の少女たちに見えた。私からは以上だ。レポートがいささか支離滅裂になってすまない。
できるだけ早く何か投稿したかったんだが、まだLegend Mのバトルの熱がひくのを待っている最中なんだ。
だけど、私はハッピーだ。私はメタルの未来を見た。その名はBABYMETALだ!!
引用元:2014年 BABYMETAL ドイツ・ケルン公演に足を運んだオランダ人男性の感想(ベビメタだらけの・・・さんより)
BABYMETALを始めて生で体験すると、誰しも同じ様な興奮状態になるのではないでしょうか。
私は東京ドームが初めての生のBABYMETAL体験でした。その時の興奮は今でも鮮明に覚えています。
熱狂と歓喜が、その一瞬一瞬に凝縮されている状況は生まれて初めての体験で、とても幸せな時間でした。
あの場にいれたことは一生の宝物です。
きっと、このオランダ人の男性も同じように感じていたのかもしれません。
そして、この公演はMOAMETAL生誕祭として、ヘドバンギャーの後半部分はMOAMETALが歌っています。
プロイセン
ケルン大聖堂
BABYMETALが初のドイツで大勝利を収めた地がケルンです。
ケルンはベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次いで4番目に大きなドイツの都市です。
で、ケルンで有名なのが、世界遺産のケルン大聖堂ですね♪
現在のケルン大聖堂は三代目です。
初代が完成したのは4世紀で、ゲルマン人のフランク族がフランク王国(メロヴィング朝)を設立し始める頃で、ケルン大聖堂は聖堂の中で最も古いものとして知られています。
現在のケルン大聖堂はプロイセン王 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 によって設立を許可され、1842年〜1880年にかけて建設されました。
その費用は11億ユーロ。なんと日本円にして1,375億円!!(@_@;)
BABYMETALもケルン大聖堂を訪れたようですね♪
―2年前のROCK IN JAPANフェスのときはまだ海外公演はシンガポールだけで、
いろんなところに行ってみたいと言ってたけど、この12か月でそれは全部行けたよね。
去年は君達、それぞれどんなことを感じた?Moa:
海外に行くのはすごくうれしかった。いい経験だった。私はドイツが特に好きだった。―去年ギミチョコのビデオで大反響だったね。
どれほど大きな反響だったか気づいた瞬間はあった?Su:
ツアーの前にYouTubeのコメントを見た。いろんな言語で書かれていてビックリ。
ツアー中はみんな一緒に唄うためだけに日本語を覚えてくれたのは感激した。―去年のツアーで気に入ったエピソードは?
Yui:
コンサートは全部楽しかったけど、いろんな国の景色を見られたのもすばらしい。
ドイツではケルンに行ってケルン大聖堂を見た。
長い階段があって、いちばん上まで登ることにしたんだけど、すごく疲れた。
でもみんなで一緒に登り切って、見た景色はすばらしかった。
ドイツで見た景色は素晴らしい思い出として、心に深く刻まれていることでしょう。
そして、ケルン大聖堂はプロイセンによるドイツ統一の重要なシンボルとして位置付けられています。

ケルン生まれのフリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク選帝侯)
前回の フランス革命 ロスチャイルドのデビュー戦 メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 パリ“【後編】 のお話しはフランス革命でした。
フランス革命(1789年-1799年)の頃、ドイツはプロイセン王国と呼ばれていました。
プロイセン王国は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。
現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。
プロイセンの語源となったプルーセンはドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られた。ドイツ騎士団国は1525年にプロシア公領ないしプロイセン公国となる。
1618年、公国はブランデンブルク選帝侯領とともに、同君連合であるブランデンブルク=プロイセンを構成した。
君主フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増した。
1701年にプロイセン王国となった。王国は北ドイツ連邦の盟主となるまで軍事国家として成長し続け、普仏戦争に勝利した。
そのときプロイセンを盟主とするドイツ帝国ができた。1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン州となった。
Wikipediaにあるようにプロイセン王国のルーツはドイツ騎士団国です。ドイツ騎士団はテンプル騎士団やマルタ騎士団と同じく中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つです。
18世紀には軍事国家として成長を続け、最終的には現在のドイツの基盤となるドイツ帝国になっています。
で、プロイセン王国の発展の礎を築いたのがフリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク選帝侯)(1620年-1688年)です。

そして、このフリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク選帝侯)の生誕地が、ドイツで行われたMOAMETAL聖誕祭の開催地であるケルンです。
ドイツ騎士団(チュートン騎士団)のホーエンツォレルン家
フリードリヒ・ヴィルヘルムに代表されるプロイセンの家系はホーエンツォレルン家です。
ホーエンツォレルン家は、テンプル騎士団やマルタ騎士団と並ぶ三大騎士修道会の1つであるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の家系です。
家名は居城としていたホーエンツォレルン城に由来し、ドイツ皇帝やルーマニア国王も出した一族です。
※ホーエンツォレルン家はドイツ皇帝のみならず、ルーマニア国王も輩出しているのですね。

そして、繰り返しになりますがプロイセン王国の礎を築いたのが、ケルン生まれのフリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク選帝侯)(1620年-1688年)。
フリードリヒ・ヴィルヘルムは三十年戦争時のプロイセン公国の指導者でプロイセン公国をポーランド支配から解放し、領内からスウェーデン勢力を駆逐したため、大選帝侯と称えられています。
※三十年戦争については 打倒!ハプスブルク!!八十年戦争 メタルレジスタンス【後編】 を参照。
フランス革命(1789年-1799年)の100年前のお話です。
これからフリードリヒ・ヴィルヘルム(1620年-1688年)の血縁関係を辿るのですが、ヘッセンとの血縁も混ぜて説明しているので混乱する可能性大です。
※フリードリヒとヴィルヘルムだらけで訳が分からなくなります。^^;
ホーエンツォレルン家とヘッセン家の蜜月関係を詳しく理解するために書いていますが、プロイセンにヘッセンの血流が築かれていることだけ抑えてくれれば良いので、なんとなくの理解で良いです。
詳しく抑えたい方はじっくりとお読み下さい。
では、参ります。
ホーエンツォレルン家とヘッセン=オラニエ・ナッサウとの蜜月関係
フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620年-1688年)の妹はヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世(1629年-1663年)と結婚したヘートヴィヒ・ゾフィー。

また、フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620年-1688年)自身はオラニエ=ナッサウのルイーゼ・ヘンリエッテと結婚しており、オランダ総督兼イングランド王のウィレム3世(1650年-1702年)の後見人を務めています。

これが、Wikipedia-プロイセン王国-に記載されていた「君主フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増した。」というお話です。
そして、フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620年-1688年)の息子が初代プロイセン王国の王であるフリードリヒ1世(1657年-1713年)。

フリードリヒ1世は、フランス王ルイ14世にあこがれるような虚栄心の強い浪費家でしたが、再婚したゾフィー・シャルロッテの影響もあって学芸を振興させ、プロイセンの王となりました。
そのフリードリヒ1世の妻が、ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世の娘のエリーザベト・ヘンリエッテ。
婚約を通し、プロイセン王国にはしっかりとヘッセンの血脈が築かれています。
しかし、エリーザベト・ヘンリエッテは、1683年に逝去。
※エリーザベト・ヘンリエッテの死により、ヘッセンとの蜜月関係が途絶えたように見えますが、フリードリヒ1世の息子であるフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(1688年-1740年)の娘ゾフィー・ドロテア・フォン・プロイセン(1719年-1765年)の、さらに娘であるフィリッピーネ(1745年-1800年)がフリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)の再婚相手となり、蜜月関係は保たれています。

※フリードリヒ2世 (ヘッセン=カッセル方伯)(1720年-1785年)が、ロスチャイルドを登用したヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)の父親です。ホーエンツォレルン家とヘッセン家の蜜月関係は保たれていましたが、後にフィリッピーネとヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)との確執が始まり、国際問題に発展するなど、ゴタゴタしています。


※ヘッセン家の血流は イルミナティ奥の院 ヘッセン メタルレジスタンス【前編】 を参照。
フリードリヒ1世(1657年-1713年)は、1684年にブラウンシュヴァイク=ハノーファー公女ゾフィー・シャルロッテ(ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘)と再婚し、1688年には後のプロイセン王、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(1688年-1740年)が生まれています。

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は粗暴で無教養でしたが、財政・軍制の改革によってプロイセンの強大化に努め、兵隊王(または軍人王)とあだ名されています。
啓蒙専制君主の名君、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)
で、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の息子が第3代プロイセン王のフリードリヒ2世 (プロイセン王)(1712年-1786年)です。

フリードリヒ2世は、優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされています。
また、フルート演奏をはじめとする芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮するなど、フランス文化を知り尽くし、学問と芸術に明るく多彩な才能の持ち主です。
また、啓蒙主義の代表的な人物であるフランスの哲学者ヴォルテールと親密に交際し、全30巻にも及ぶ膨大な著作を著し哲人王とも呼ばれています。
哲学者のイマヌエル・カントはフリードリヒの統治を「フリードリヒの世紀」と讃えています。
このフリードリヒ2世が、オーストリア継承戦争 (1740-1748)でシレジアをオーストリアのハプスブルク家から奪っています。
そして七年戦争では、オーストリア、フランス、ロシアの3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツの諸侯も加えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとって絶望的な状況に追い込まれながらも巧みな戦術で敵国に大きな損害を与えるなど、なんとか持ちこたえていました。
しかし劣勢は続き、自殺まで覚悟したところでロシアのエリザヴェータ女帝が急死。甥で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇跡的にロシアとの講和が成立し危機を回避。
フリードリヒ2世はそこから挽回し、最終的には宿敵のハプスブルク家のマリア・テレジア(オーストラリア)に勝利しています。
この勝利がきっかけとなり、プロイセンはヨーロッパにおける主要プレイヤーへと成長を遂げます。
これらの功績が称えられフリードリヒ2世は、フリードリヒ大王と尊称されています。
※上述したフィリッピーネは、このフリードリヒ2世と強い肉親の情で固く結ばれています。フリードリヒ2世はフィリッピーネと離れ離れになるのを嫌がったためにフィリッピーネの縁談は何度も破談になりました。しかし結局はフリードリヒ2世は1772年にフィリッピーネを泣く泣く手放し、プロイセンからの莫大な持参金を目当てにするヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の元へフィリッピーネを嫁に出しています。
しかし、フリードリヒ2世には子供がいませんでした。
よって、甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744年-1797年)が、プロイセン王を引き継ぎました。
で、このフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が「黄金薔薇十字団」というオカルト結社に傾倒していきます。
・・・
「黄金薔薇十字団」について語り出すと、だいぶ長くなってしまいますので、今回はここまでとさせて頂きます。
「黄金薔薇十字団」については次回、語らせて頂ければと思います。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
それでは。また。
おち
次の記事→プロイセン 黄金薔薇十字団の黒幕ヘッセン メタルレジスタンス “WORLD TOUR 2014 ケルン”【後編】
※アイキャッチ画像は、くろもり @crmo2018 さんの作品です。お借りさせて頂きました。