こんにちは。おちです。
前回のメタルレジスタンスでは、 打倒!ハプスブルク!!八十年戦争 メタルレジスタンス【前編】 と
打倒!ハプスブルク!!八十年戦争 メタルレジスタンス【後編】 についてお話させて頂きました。
このお話で八十年戦争(三十年戦争含む)の概要がお分かり頂けたかと思います。BABYMETALが挑む闇、ダークサイドであるイルミナティのルーツを抑えるには最低限、八十年戦争の知識が必要になります。
その中でもヴェストファーレン条約(ウエストファリア条約)で特権を得たヘッセンを抑えることが特に重要になってきます。
※サヴォイも重要ですが、直接イルミナティと絡んでいる訳ではないので割愛します。スイスやテンプル騎士団、十字軍、海の民などに触れることがあればいずれ深堀したいと思います。
ヘッセンについてはネットでもそれほど情報が出回っている訳ではありません。知らない人も殆どだと思います。
今回は『FINAL BATTLE』。ラスボスのイルミナティの奥の院であるヘッセンについて触れていきます。
長いので全て頭に入れるのは難しいと思います。『※重要』となっている所を抑えて頂ければと思います。それ以外は読み飛ばして問題ありません。参考情報として掲載しています。
『FINAL BATTLE』は前編、後編の2部作になります。前編はヘッセンについて抑えて頂き、後編はヘッセンがいかにしてフリーメイソン内にイルミナティ(薔薇十字思想)を植え付けていったかを見ていきます。
では始めます。
「革命」
それは自らを超え、新たな自分を創造する事への挑戦
すなわち己との戦い
A-KIBAの魔力によって失われたホントのメタルを取り戻すため
BABYEMTALは新たな試練へと立ち向かう
ここ東京台場町に集った同志諸君と共に「メタルの方舟」フライングVに乗り修行の旅へと出るのだ…
諸君 首の準備は出来ているか?
いよいよ「五月革命」の幕開けだ!!
ロスチャイルドは使用人、その奥にヘッセン
一般的な陰謀論では、ロスチャイルドが世界の皇帝であり、イルミナティのオーナーであるかのような風潮があります。しかし、実際は異なります。
ロスチャイルドはあくまで使用人にすぎません。その奥にいるのがヘッセンです。
ヘッセンについては、殆ど情報がないのですが、唯一、 高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】 さんのブログで取り扱っています。
このブログを読み解くのは難解なのですが、とても参考になる情報が満載です。私の知識の基本となるブログになります。
中でもこのブログにコメントを寄せられる『名無し先生』さんは、本当にその世界の一線(プロの諜報組織の人?日本の天皇家とも密接に関係がある様子)でご活躍されている方のようで情報の質が他のネットで語られるものとは雲泥の差があります。
私はこの『名無し先生』さんの情報が世界情勢を抑える上で最も真実に近いものであると見ています。これ以上のものは見たことがありません。
そして、この『名無し先生』さんがヘッセンについて抑えることの大切さを語っておりました。
確かにここを抑えると色々なものがハッキリと見えてきます。ダイナミックな歴史を経て現代に至っていることがよく分かります。
なぜ?日本の歴史教育はここに触れないのだろう?変に勘ぐってしまいます。
では、ヘッセンとは何なのか?それを理解できるようにこれからチャレンジしていきたいと思います。
スタートは八十年戦争(三十年戦争)終結時に結ばれたヴェストファーレン条約です。
そこに記載されたヴィルヘルム5世(ヘッセン=カッセル方伯)(1602年-1637)の妻であるアマーリエ・エリーザベト(1602年-1651年)から血流を現在(2018年)に向けて流していきます。
ヘッセンの血流を辿る
これからヘッセンの血流を辿ります。
まずは、ヴェストファーレン条約の第50条〜第62条までに記載されていヘッセン・カッセルに取り上げらているヴィルヘルム5世(ヘッセン=カッセル方伯)(1602年-1637年)の妻であるアマーリエ・エリーザベト(1602年-1651年)です。
※子女は重要人物を抜粋しています。
(1)アマーリエ・エリーザベト(1602年-1651年)※重要![]()
ヴィルヘルム5世(ヘッセン=カッセル方伯)(1602年-1637)の妻。ヴェストファーレン条約のヘッセンにアマーリエ・エリーザベトが記載されれている。 子女 ・ヴィルヘルム6世(ヘッセン=カッセル方伯)(1629年-1663年)→(2)へ 1637年に父の死去によって方伯位を嗣ぐが、幼少だったため1650年まで母のアマーリエ・エリーザベトが摂政を務めた。 ・シャルロッテ・フォン・ヘッセン=カッセル(1627年-1686年) プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの最初の妻。夫が三十年戦争で荒廃したプファルツ選帝侯領の再建のために節約に努めるのを尻目に、舞踏会や狩猟パーティを開いて散財を繰り返した。 |
(2)ヴィルヘルム6世(ヘッセン=カッセル方伯)(1629年-1663年)※重要![]()
1637年に父の死去によって方伯位を嗣ぐが、幼少だったため1650年まで母のアマーリエ・エリーザベトが摂政を務めた。1663年7月16日にカッセルで死去、長男のヴィルヘルム7世が方伯位を嗣いだ。 子女 ・シャルロッテ・アマーリエ(1650年-1714年) デンマーク王クリスチャン5世と結婚、彼女は改革派教会の信仰が篤く、デンマーク初の改革派教会(プロテスタント)を建設した。デンマーク国民に人気のある王妃。※ここでヘッセンがデンマークに入り込んだ。 ・ヴィルヘルム7世(1651年-1670年) 1670年11月21日にパリで死去。未婚だったため、弟のカールが方伯位を嗣いだ。 ・カール(ヘッセン=カッセル方伯)(1654年-1730年)→(3)へ カッセルで生まれ、1670年に兄のヴィルヘルム7世が死去したことによりヘッセン=カッセル方伯となる。 ・エリーザベト・ヘンリエッテ(1661年 – 1683年) 1679年、プロイセン王フリードリヒ1世(初代プロイセン王)(1657年-1713年)と結婚。※ここでヘッセンがプロイセン(ドイツ)に入り込んだ。 |
(3)カール(ヘッセン=カッセル方伯)(1654年-1730年)※重要![]()
1730年に死去、息子のスウェーデン王フレドリク1世となっていたフリードリヒがヘッセン=カッセル方伯位を嗣ぎ、スウェーデンとヘッセン=カッセルの同君連合が成立した。 子女 ・フレドリク1世(スウェーデン王)(1676年-1751年)スウェーデン王(在位:1720年-1751年) スウェーデンで1代限りのヘッセン王朝の国王となった。当時のスウェーデンは大北方戦争の最中であったが、ロシアとの勝敗は決していたため、フレドリクは強い反露感情を持っていたという。父カールの死後、ヘッセン=カッセル方伯となった。※ここでヘッセンがスウェーデンに入りこんだ。 ・ヴィルヘルム8世(ヘッセン=カッセル方伯)(1682年-1760年)→(4)へ 1730年に父カールの死去によって兄フリードリヒ1世がヘッセン=カッセル方伯となるが、フリードリヒ1世はスウェーデン王となっていたため、ヴィルヘルムが摂政としてヘッセン=カッセル方伯領の政務を執った。1751年に兄のフレドリク1世の死を受けて、ヘッセン=カッセル方伯を継いだ。 ・マリア・ルイーゼ・ファン・ヘッセン=カッセル(1688年-1765年) 1709年にヨハン・ウィレム・フリーゾ(オラニエ公)(1687年-1711年)と結婚。その息子にウィレム4世(オラニエ公)(1711年-1751年)がいる。 【特記】ウィレム4世(オラニエ公)(1711年-1751年) オランダ(ネーデルラント連邦共和国)7州の総督を全て兼ね、また総督職の世襲を公認された最初の人物である。1734年、ウィレム4世はグレートブリテン(イギリス)王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の長女アン(1709年-1759年)と結婚。※ここでオランダはヘッセンが掌握した。また、イギリスにヘッセンが入り込んだ。 |
(4)ヴィルヘルム8世(ヘッセン=カッセル方伯)(1682年-1760年)![]()
1760年に死去。フリードリヒ2世が方伯位を継いだ。 子女 ・フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)(1720年-1785年)→(5)へ 1760年、父の死によってヘッセン=カッセル方伯位を嗣いだ。 |
(5)フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)(1720年-1785年)※重要![]()
1740年にイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリー(1723年-1772年)と結婚した。※ここでヘッセンは傭兵ビジネスでイギリス掌握への基盤を固めていく。 1775年にアメリカ独立戦争が勃発するとフリードリヒ2世はイギリスとの間に傭兵提供条約を結び、これによって莫大な収益をあげた。1785年にカッセルで死去し、次男ヴィルヘルムがヴィルヘルム9世として方伯位を嗣いだ。 子女 ・ヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)、またはヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)→(6)へ ヘッセン=カッセル方伯としてはヴィルヘルム9世、イギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の王女メアリーの息子。父、フリードリヒ2世の死後、ヘッセン=カッセル方伯を継いだ。 ・フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム(1747年-1837年)→(6)’へ フリードリヒ3世とも呼ばれる。ヘッセン家諸家の中で現在も続く分家、ヘッセン=ルンペンハイム家の始祖である。 ・カール・フォン・ヘッセン=カッセル(1744年-1836年) 「アジア秘儀入門騎士兄弟会」のグランドマスター。 謎の人物サン・ジェルマン伯爵はこの運動の一員であった。事実、サン・ジェルマン伯爵は1778年からカール方伯のもとに移り住み、カール方伯は伯爵の弟子となり後援者となったのであった。 「アジア秘儀入門騎士兄弟会」は、メーソン黄金バラ十字団の後継組織。それは伝説的な秘密組織であったにも関わらず18世紀にドイツに起こり、当時ドイツで最も重要なメーソン団となった「謹厳遵守テンプル騎士団(Templar Strict Observance)」の覚醒を促すこととなった。 参考:その10 バラ十字運動とフリーメーソン、エジプトとエッセネ派とテンプル騎士団の起源(後半) この薔薇十字団の思想を後に引き継ぐのがアレイスター・クロウリーの東方聖堂騎士団。この団体がイルミナティの復興運動を行っている。イルミナティ BABYMETALのメタルレジスタンス |
(6)ヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)、またはヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)※重要![]()
デンマーク・ノルウェー王フレデリク5世の王女ヴィルヘルミーネ・カロリーネと結婚。父のフリードリヒ2世が死去したためヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世となり、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した。 また、ヴィルヘルム9世はロスチャイルド家の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトと1775年に知己を得、1801年から彼に財産の運用を任せるようになった。ロートシルトはこれを奇貨とし、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築いた。 1803年、ヘッセン=カッセル方伯に選帝侯の資格が与えられ、ヴィルヘルム9世はヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世となった。 ヴィルヘルム1世が死去すると、次男のヴィルヘルム2世が後を嗣いだ。 子女 ・ヴィルヘルム2世(ヘッセン選帝侯)(1777年-1847年)→(7)へ プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の王女アウグステ(1780年 – 1841年)と結婚。 |
(7)ヴィルヘルム2世(ヘッセン選帝侯)(1777年-1847年)![]()
1847年にフランクフルト・アム・マインで死去し、次男のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世が後を嗣いだ。 子女 ・フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1802年-1875年)→(8)へ |
(8)フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1802年-1875年)![]()
1831年に貴賤結婚した為にその子に継承権はなかった。よって、ヘッセン=カッセル方伯は又従弟のフリードリヒ・ヴィルヘルム(ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯)が継承した。 フリードリヒ・ヴィルヘルム(ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯)(1820年-1884年)→(8)’へ このラインはここまで。 |
(6)’フリードリヒ・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム(1747年-1837年)※ここから現在のヘッセン家の主流になる![]()
(5)フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)(1720年-1785年)とその最初の妃でイギリス王ジョージ2世の娘であるメアリー(1723年-1772年)との間に末息子として生まれた。 ヘッセン家諸家の中で現在も続く分家、ヘッセン=ルンペンハイム家の始祖。 1749年に父がカトリックに改宗すると、母メアリーは夫と絶縁し、3人の息子たちを連れてヘッセン=カッセル家の領地ハーナウ伯領に移った。その後、メアリーは妹のデンマーク王妃ルイーズの遺児たちを世話するため、息子たちと一緒にコペンハーゲン宮廷で暮らすようになった。 1837年に死去。息子のヴィルヘルム10世(ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム)がヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯を継いだ。 子女 ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム、またはヴィルヘルム10世(1787年-1867年)→(7)’へ 1837年に父が死ぬと、ヴィルヘルムはヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯の称号を受け継ぎ、弟たちとの共同財産としてルンペンハイム宮殿とその所領を相続した。 ・アウグステ(1797年-1889年) イギリス王子・ケンブリッジ公アドルファスと結婚。 |
(7)’ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム、またはヴィルヘルム10世(1787年-1867年)※重要![]()
父の遺言に従い、ヴィルヘルムは2年ごとにルンペンハイム方伯家の全成員が集まってスポーツに興じる「ルンペンハイム一族の集いの日」という行事を始めた。 この行事は、ドイツ諸侯の分家に過ぎないヘッセン=ルンペンハイム家が19・20世紀を通じてヨーロッパ諸王家との通婚関係によって繁栄する上で、重要な役割を果たした。 ヴィルヘルムは最初、ヘッセン選帝侯領の歩兵隊将軍を務めてヘッセン第2歩兵連隊を指揮したが、後にデンマーク軍で名誉的な将軍の地位を与えられ、コペンハーゲン都督を務めている。 1866年に選帝侯位を追われた従甥のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1802年-1875年)は貴賤結婚により自分の息子たちに後を継がせられないため、分家であるヴィルヘルムの子孫がヘッセン=カッセル家の家督とヘッセン選帝侯位請求者の地位を受け継いだ。 子女 ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル(1817年-1898年)→(8)’’へ ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル(1820年-1884年)→(8)’へ |
(8)’フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル(1820年-1884年)※重要![]()
母方を通じてデンマーク王位請求権を持っていた。1844年1月、ロシア皇女アレクサンドラ・ニコラエヴナ(ニコライ1世の娘)と結婚した。しかし、アレクサンドラは男児を出産後急死し、未熟児で生まれた長男ヴィルヘルムも夭折した。その後の1853年、マリア・アンナ・フォン・プロイセン(プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の孫)と結婚し、6子をもうけた。※ここでヘッセンがロシアに入り込んだ。 子女 ・フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン(1868年-1940年)→(9)’へ 1918年の短期間、フィンランド国王カールレ1世と称した。 |
(9)’フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン(1868年-1940年)※重要![]()
ヘッセン=カッセル方伯家家長。1918年の短期間、フィンランド国王カールレ1世と称した。 子女 ・フィリップ・フォン・ヘッセン(1896年-1980年)→(10)’へ ナチ党の政権掌握後にヘッセン=ナッサウ州の知事を務めた。1925年にはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(サヴォイ)の次女マファルダと結婚した。※ここでサヴォイと繋がる。 ・ヴォルフガング・モーリッツ(1896年-1989年) 1918年に父がフィンランド議会によって国王カールレ1世に推戴された際、フィリップがドイツにおいてヘッセン=カッセル家を受け継ぎ、ヴォルフガングが新興国フィンランドの王家を受け継ぐという、一族内の役割分担が想定された。このためヴォルフガングがフィンランド王太子になることが定められたが、ドイツの敗戦によりヘッセン家がフィンランド王位に就く望みは潰えた。 ・クリストフ・エルンスト・アウグスト(1901年-1943年) ハインリヒ・ヒムラーの側近であり、親衛隊(SS)にも所属している。第二次世界大戦ではドイツ空軍の少佐にまで昇進した。ギリシャ王女ソフィア(エディンバラ公フィリップの姉)と結婚。 |
(10)’フィリップ・フォン・ヘッセン(1896年-1980年)![]()
1925年にはイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(サヴォイ)の次女マファルダと結婚した。 1930年10月にドイツへ帰国すると同時に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。1932年に突撃隊(SA)の隊員となる。なお彼の弟3人もみなナチスに入党し、弟の1人クリストフは親衛隊(SS)に入隊している。アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命された1933年1月30日、フィリップはヒトラーからヘッセン=ナッサウ州の知事に任命された。さらにナチ党の国会議員ともなった。フィリップは、ヘッセン=ナッサウ州知事として障害者を安楽死させる計画「T4作戦」に関与した。 1943年、イタリアの独断での降伏によりフィリップと妻マファルダは逮捕され、フロッセンビュルク強制収容所へ移送された。マファルダはダッハウ強制収容所へ移送されたが、そこで連合軍の空爆による負傷がもとで死亡している。フィリップは1945年4月にダッハウ強制収容所へ移されたが、間もなくアメリカ軍により解放された。 しかし1946年にはT4作戦に関与したことから戦犯として訴追され、裁判にかけられた。1980年にローマで死去。 子女 ・モーリッツ・フォン・ヘッセン(1926年-2013年)→(11)’へ ヘッセン家の当主。イタリア語名はマウリツィオ・ダッシア。 |
(11)’モーリッツ・フォン・ヘッセン(1926年-2013年)![]()
ヘッセン家の当主。イタリア語名はマウリツィオ・ダッシア。 2005年9月に放送された日本のテレビ番組「開運!なんでも鑑定団」において、鑑定士中島誠之助・阿藤芳樹、タレント住田隆がモーリッツの屋敷を訪れ、所有している骨董品を鑑定するという企画が行われた。このうち初期柿右衛門様式の壺には5億円という番組史上最高額(放送当時)の鑑定額が付けられた。 子女 ・ハインリヒ・ドナトゥス・フォン・ヘッセン(1966年-)→(12)’へ |
(12)’ハインリヒ・ドナトゥス・フォン・ヘッセン(1966年-)![]()
ヘッセン=カッセル方伯家家長モーリッツ・フォン・ヘッセンとその妻タティアナ(グスタフ・アルブレヒトの次女)の間の長男(第2子)として生まれた。アビトゥーアを取得後にベルリン自由大学で経営経済学を学び、現在はヘッセン家の資産管理団体を経営している。 ワインの銘柄『Prinz von Hessen(プリンツ・フォン・ヘッセン=ヘッセンの王子)』のオーナー。
終わり |
(8)’’ルイーゼ・フォン・ヘッセン=カッセル(1817年-1898年)※重要![]()
(7)’ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム、またはヴィルヘルム10世(1787年-1867年)の三女として生まれる。母ルイーゼ・シャルロッテはデンマーク王クリスチャン8世の妹であった。弟(8)’フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ヘッセン=カッセル(1820年-1884年)はヘッセン=カッセル家の家長となった。 子女 ・クリスチャン・フレゼリク・ヴィルヘルム・カール(1843年-1912年) デンマーク王フレゼリク8世。 ・アレクサンドラ・カロリーネ・マリー・シャルロッテ・ルイーセ・ユリア(1844年-1925年) イギリス王エドワード7世妃。 ・クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(1845年-1913年)→(9)’’へ ギリシャ王ゲオルギオス1世。 ・マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー(1847年-1928年) ロシア皇帝アレクサンドル3世皇后。ロシア名はマリア・フョードロヴナ。 ※ルイーゼの子供がイギリス王の妃、デンマーク王、ギリシャ王、ロシア王の妃になっている。 |
(9)’’クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(1845年-1913年)![]()
ギリシャ王ゲオルギオス1世。元々はデンマーク王子だったが、1863年に議会で初代国王オソン1世の廃位と、自身の即位が可決されると、イギリスやフランス、ロシアなど列強諸国の支援もあって、17歳で王位に就いた。 子女 ・コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)(1868年-1923年) 1896年に王太子として、アテネで開催された第1回近代オリンピックの実行委員会を指揮した。 ・ゲオルギオス(1869年 – 1957年) クレタ島総督。ロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)と共に訪日した際、大津事件に巻き込まれたが、随伴の日本人車夫達に加勢して共にニコライを救った。 ・アレクサンドラ(1870年 – 1891年) ロシア皇帝アレクサンドル2世の息子パーヴェル大公と結婚。ラスプーチン暗殺者であるドミトリー大公の母 ・アンドレアス(1882年 – 1944年)→(10)’’へ エディンバラ公フィリップの父(現エリザベス女王の夫) |
(10)’’アンドレアス(1882年 – 1944年)![]()
グリュックスブルク家の一員であり、ギリシャ王子およびデンマーク王子であった。イギリス女王エリザベス2世の王配エディンバラ公フィリップの父である。 1903年に、でルイス・オブ・バッテンバーグ(のちの初代ミルフォード=ヘイヴン侯爵ルイス・マウントバッテン)の娘アリス(ギリシャ語: アリキ)と結婚し、後に1男4女をもうけた。 子女 ・フィリッポス(1921年-)→(11)’’へ |
(11)’’フィリッポス(1921年-)![]()
イギリス王室の成員、イギリス女王エリザベス2世の夫(王配)。次期王位継承者・チャールズの実父。 エディンバラ公爵、メリオネス伯爵、グリニッジ男爵、イギリス海陸空軍元帥、日本学士院名誉会員。 ![]()
エリザベス2世は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を含む、16か国の主権国家(イギリス連邦王国)の君主であり、王室属領と海外領土の元首である。また、イングランド国教会の首長。イギリスの君主としてはウィンザー朝の第4代女王である。 ※イギリス王室のルーツはヘッセン。 終わり |
ヨーロッパの主要国の王室にヘッセン
上記からイギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ギリシャ、ロシア。北ヨーロッパの殆どの国の王室がヘッセンであることがお分かり頂けたかと思います。
※フランスがここに入っていないのが、とても興味深い。フランスはアメリカと同様に王族に縛られず、民主主義の自由への意志が脈々と受け継がれているように思います。
王室は日本でいうところの皇室に当たります。つまり、日本における天皇家。
北ヨーロッパのフランスを除く殆どの国の天皇がヘッセンということです。
今ひとつピンとこないかもしれません。しかし、よくよく考えれば上記の国々の天皇がヘッセンという事実はとても重要なことなのではないでしょうか。
そして、この事実を抑えている人はとても少ない。
で、上記の「(5)フリードリヒ2世(ヘッセン=カッセル方伯)(1720年-1785年)」と、「(6)ヴィルヘルム9世(ヘッセン=カッセル方伯)、またはヴィルヘルム1世(ヘッセン選帝侯)(1743年-1821年)」の時代にイルミナティやロスチャイルドが登場してきます。
次回の『イルミナティ奥の院 ヘッセン メタルレジスタンス【後編】 』では、この当たりをもう少し詳しく見ていきたいと思います。
イルミナティの根本に流れる思想は薔薇十字団の思想です。
ちなみに2012年のロンドンオリンピックは東方聖堂騎士団の儀式を再現した内容でしたね。東方聖堂騎士団のルーツに薔薇十字団があります。

一つ目・・・。そしてロゴにはシオンの文字が・・・・
改めて見るとモロ過ぎて笑ってしまいました。病的で趣味悪すぎ。(笑)
怖がらせて、人を支配したつもりになって、勝手に上か下か自分で決めて優越感に浸ることで安心した気になる。
私の中学時代はまさにコレ。中二病というヤツです。
ったく、しょーもないな。
その精神を深堀りすれば、ただ自信がないだけ。本当は怖くてしょうがない。
お金があるなら、もうちょっとセンスの良いものに使えば、皆んな喜ぶし、感謝されるし、尊敬される。
その中にいれば恐怖から解放され、安心に満たされ、もっと楽できると思うんだけどな・・・。
ま、いっか。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
後編に続きます。
それでは。また。
おち
次の記事→イルミナティ奥の院 ヘッセン メタルレジスタンス【前編】に寄せられたコメントへの回答
※アイキャッチ画像は、くろもり @crmo2018 さんの作品です。お借りさせて頂きました。