こんにちは。おちです。
前回 打倒!ハプスブルク!!八十年戦争 メタルレジスタンス【前編】 からの続きです。
早速、始めます。
打倒!ハプスブルク!! -三十年戦争(第二次モッシュッシュ)-
1621年に停戦が終わると、ネーデルラント連邦共和国(以降、オランダ)による独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争(1618年〜1648年)にもつれ込みました。
先に仕掛けたのは、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝、フェルディナント2世です。
フェルディナント2世はイエズス会の教育を受けた熱心なカトリックであり、皇帝の地位につくやいなやプロテスタントの弾圧を開始します。
弾圧に反発したプロテスタントの急進派貴族が、カトリックの皇帝代官をプラハ王宮の窓から突き落とすというプラハ窓外投擲事件が起き、これに対しフェルディナント2世は軍を派兵。(1618年)
三十年戦争『おしくらまんじゅう、第二次モッシュシュ』の始まりです。
構図は『スペイン・神聖ローマ帝国(ハプスブルク家、カトリック) VS 反ハプスブルク勢力(その他諸侯、プロテスタント)』です。
反ハプスブルク勢力は
- オランダ(オラニエ=ナッサウ家)
- シュマルカルデン同盟(ヘッセン家、ドイツ地方)
- フランス王国(ブルボン家)
- サヴォイア公国(サヴォイ家、イタリア北西部、フランス東部、スイス)
- ヴェネチア(サヴォイ家?確かな情報が掴みきれていない)
- スウェーデン(ヴァーサ家)
- デンマーク(オルデンブルク家)
- イングランド(テューダー家)
が挙げられます。
※フランスはユグノー戦争により、プロテスタントになったりカトリックになったり内情が複雑ですが、真意はどちらでもよく、要は打倒ハプスブルクです。
※スイスは表立っては中立ですが、裏では傭兵(スイス傭兵)をフランス王国やスウェーデンに貸し出しています。
初期はハプスブルク家(神聖ローマ皇帝:フェルディナント2世)が、名将ティリー伯、ヴァレンシュタイン、スピノラなどの活躍により戦局を有利に進め、ボヘミア(チェコ)とプファルツ(ドイツの西、フランスとの国境の堺)を平定しました。
しかし、プファルツ侵攻に脅威を感じたフランス王国(ブルボン家)の宰相リシュリューが1624年にオランダ、イングランド、スウェーデン、デンマークと「ハーグ同盟(対ハプスブルク同盟)」を結成し、ハプスブルクを牽制します。
※リシュリューは三銃士の悪役として有名。
またフランス王国は、サヴォイア、ヴェネツィアと連携し、スペインのハプスブルク家への支援ルートを封鎖。スペインとドイツ・オーストリアの神聖ローマ帝国との連携を阻止しました。
そして、スウェーデン王グスタフ・アドルフ、デンマーク王クリスチャン4世が参戦します。
デンマーク王クリスチャン4世は、イングランドによる資金や傭兵隊長含めた軍の提供を受けていましたが、神聖ローマ帝国軍のティリー伯とヴァレンシュタインに劫略の限りを尽くされ、進退窮まり撤退を余儀なくされます
反対に目覚ましい活躍をしたのが、スウェーデン王グスタフ・アドルフです。『北方の獅子王』の異名を持ちます。
スウェーデンは、フランス王国から資金提供を受け、ドイツに進撃します。
ブライテンフェルトの戦い (1631年)では、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍を破りました。
ここでのスウェーデン軍の勝利が三十年戦争の転換点となります。また、スウェーデンが三十年戦争の主導権を握ります。
続くレヒ川の戦いでもスウェーデン軍が勝利、名将ティリー伯はここで討ち取られます。神聖ローマ帝国軍は大きな損害を被りました。
慌てた神聖ローマ帝国は、引退していたヴァレンシュタインを復帰させ、スウェーデン軍に対峙させます。
そして、1632年のリュッツェンの戦いで神聖ローマ帝国軍のヴァレンシュタインとスウェーデン軍のグスタフ・アドルフは激突します。
この戦いでスウェーデン王グスタフ・アドルフは戦死。
しかし、スウェーデン軍はひるむことなく、神聖ローマ帝国に戦いを仕掛け勝利。神聖ローマ帝国をさらに追い詰めます。
その要因となったのが、グスタフの残した宰相アクセル・オクセンシェルナや、優秀な将軍達の存在です。
宰相アクセル・オクセンシェルナの指導の元、優秀な将軍達は三十年戦争を勝利に導きます。
特に宰相アクセル・オクセンシェルナの働きは大きく、支援側にいたフランス王国を直接介入させることに成功します。
そして、フランス王国はスペイン(ハプスブルク家)に宣戦布告、『フランス・スペイン戦争(1635年-1659年)』が開始され、流れが一気に反ハプスブルク勢力に傾きます。
さらに、1636年のヴィットストックの戦いでスウェーデン軍が神聖ローマ帝国軍に勝利。
一方、ネーデルラントでは、オラニエ公ウィレム1世の息子のフレデリック・ヘンドリックがオランダ軍を率いてスペイン軍を破り、ブレダの要塞を陥落させます。(第四次ブレダの戦い:1637年)
こうした情勢の中、1637年にフェルディナント2世が死去。そして、フェルディナント3世が即位。
フランス王国も、1638年のラインフェルデンの戦いでラインフェルデン、フライブルク、ブライザハを陥落させてアルザスを占領。スペイン回廊を寸断。
追い打ちをかけるように、1639年にダンケルクの海戦でオランダ海軍はスペイン艦隊を破り、同年10月のダウンズの海戦で上陸軍を含むスペイン・ポルトガルの大艦隊を撃破。
神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)は度重なる敗戦で、世界に轟かせたその栄光も凋落の一途を辿ることになりました。
打倒!ハプスブルク!! -ヴェストファーレン条約(オマエのものはオレのもの)-
凋落の一途を辿る神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)は、和平を模索し始めます。
しかし、そのジャイアンのような高圧的な態度に応じる勢力は誰一人いません。敗戦に敗戦を重ねるし、ドイツの諸侯は離反が続くし、国内は厭戦気分が蔓延するし。。。
神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)は孤立していきました。
1642年の暮れに、ライン川の両岸で和平会議が設置されましたが、あえなく失敗。
逆にフランスもスウェーデンも交渉を優位に運ぶために、「オマエのものはオレのもの」と自己主張を強め、戦争(モッシュッシュ)を終わらせるための戦争(モッシュッシュ)を仕掛け、戦火が収まる気配なく激化していきます。
1643年にフランス王国のアンギャン公ルイ・ド・ブルボン(後のコンデ公ルイ2世)がロクロワの戦いでスペインを殲滅。
さらに1644年のフライブルクの戦いでカトリック軍の中心であるバイエルン軍を破ったことで、フランスは三十年戦争における勝利を確実なものにしました。
そして、スウェーデンは、1645年のプラハ近郊のヤンカウの戦いで神聖ローマ帝国軍を粉砕。
この時プラハにいた皇帝フェルディナント3世は狼狽してウィーンへ逃亡。ハプスブルク家の敗北は決定的なものとなりました。
これを受け、和平会議は一気に進展することになります。
和平会議が開かれることになったのですが、ここでスウェーデンの古ゴート主義(オマエのものはオレのもの)がさく裂。
過度な要求を皇帝に突き付けることにより、交渉は難航しました。
そこでスウェーデンの女王『クリスティーナ』の登場です。この人、ありのままに生きる「アナと雪の女王」のような人です。
ありのままに財を使うわ、勝手にカトリックに改宗するわ、父親の政治信条である古ゴート主義を捨ててしまうわ、しまいに「やーめた!」と、王位を従兄のカール10世に譲ってしまうわ・・・。
参考:王冠を投げ捨てありのままに生きたクリスティーナ 個性強烈なアナ雪が北欧に実在した!
しかし、クリスティーナはただの傍若無人のわがまま娘といった訳ではありません。父親譲りの聡明さは健在で、学者たちと語り合うことを好むなど、実は知性の塊のような人でした。
傍若無人の振る舞いは戦略あってのことでしょう。
彼女が望んだことは、戦争を終わらせ、平和をもたらすこと。彼女の信念が、八十年も続いた戦争を終わらせます。
カトリックとプロテスタントの融和を説き(自らカトリックへ改宗してしまう)、古ゴート主義(オマエのものはオレのもの)の愚かさを説き、スウェーデンの国益と己の平和への信念の間で揺れ動きながらも最終的には自ら王位を去る道を選びました。
このクリスティーナの己の信ずる道を突き進む姿は、どこかSU-METALを彷彿とさせます。
彼女の威光によって、スウェーデンは皇帝に突き付けていた過度な要求を取り下げました。
その引き換えに彼女は、平和と安寧のために皇帝に迫って新教徒の権益を拡げさせました。
結果、和平交渉が進展し、ヴェストファーレン条約が締結されます。
ここにカトリックとプロテスタントによる宗教戦争は終止符が打たれました。
引用元:ウエストファリア条約(三十年戦争の講和条約, 1648)
最も神聖にして分かちがたき三位一体の名において。関係する、あるいは必要であるすべての各人に知らしむべし。
過去長年にわたって不和と民の分断がローマ帝国においてかきたてられ、それはドイツ全土のみならず近隣の諸王国とりわけフランスまでもが長く残酷な戦争の争乱に巻き込まれるまでに程度を増し、そして第一に最もやんごとなく最も力ある君主にして領主で名高き追憶のうちにある・・・(関係者が列挙されています。)・・・
、それはキリスト教徒の血の多大なる流出と諸地方の荒廃とをもたらした。神の恵みのみわざにより、〔また〕キリスト教世界全体が混乱のうちにあるこの悲しき時勢において公共の福利と平穏のための助言を供し続けてきた最もやんごとなきヴェネツィア共和国の努力によって後押しされ、ついに双方の側において普遍的な平和の考えを抱くに至った。
ここにクリスティーナの意志が込められているように思います。
ヴェストファーレン(ウエストファリア)条約の結果は下記の通りです。
- 新教徒の権利が認められ、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められた。(宗教の違いによる争いの火種の解消。)
- カトリックの皇帝が紛争を調停する立場にあるわけではないことが確定。(ハプスブルク家はオーストリア、ボヘミア、ハンガリーのみの領主となった。ヘッセンなどの領主と同格。)
- ドイツの帝国内の領邦に主権が認められた。(ヘッセンなどの領主が、領邦における主権が認められる。)
- ネーデルラント共和国(オランダ共和国)とスイスの独立が国際的に承認された。
- フランス王国はアルザス地方と、ロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダン諸市を獲得。
- スウェーデンはバルト海沿岸部に領土を獲得。(その一帯に覇権を打ち立て、この時代のスウェーデンはバルト帝国とも称される。)
これにより、諸国のパワーバランスが保たれ、戦争(モッシュッシュ)が誘発されない体制となりました。
しかし、光がある所に闇がある。
注目は、ヘッセン・カッセルとサヴォイに手厚い権利と膨大な賠償金が与えられていることです。
なぜ、手厚い権利と膨大な賠償金を手にすることができたのでしょうか?
その要因となるのが、傭兵稼業です。
まずはヘッセン。
17世紀から18世紀のヘッセン=カッセル方伯は軍隊を傭兵として貸し出すことで悪名を高くした。
18世紀を通じ、ヘッセン=カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン=カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。
方伯フリードリヒ2世は、義理の甥にあたるハノーファー選帝侯兼イギリス王ジョージ3世にアメリカ独立戦争に投入するためのヘッセン=カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。
このためアメリカ人はイギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たちを「ヘシアン」 (Hessian) と呼ぶようになった。
フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送り、次代のヴィルヘルム9世はこの巨富の運用をマイアー・アムシェル・ロートシルトに任せたことでロスチャイルド家の発展の礎が築かれた。
引用元:ヘッセン=カッセル方伯領
※ちなみに18世紀のアメリカ独立戦争時にイギリスに傭兵を提供したことは注目しておきましょう。ついでにロスチャイルドのボスがヘッセンです。
そして、サヴォイ。
スイス傭兵(スイスようへい)は、主にスイス人によって構成される傭兵部隊で、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各国の様々な戦争に参加した。特にフランス王家とローマ教皇に雇われた衛兵隊が名高く、後者は現在も存在する(バチカンのスイス衛兵)。
三十年戦争 – 17世紀に起こったドイツでの宗教戦争及び国家間戦争。特にスウェーデン軍やフランス軍に雇用された。
引用元:スイス傭兵
17世紀の三十年戦争の時代。この時代にヘッセンやサヴォイは各国へ傭兵を貸出すビジネスで、ウエストファリア条約における手厚い権利と膨大な賠償金を手にいれました。
以上が15世紀〜17世紀のヨーロッパの歴史です。ヘッセンやサヴォイが土台を固めた時代でもあります。
そして、その後の18世紀のグレートブリテン王国成立、アメリカ独立戦争、フランス革命へと繋がります。
『オマエのものはオレのもの』を掲げる勢力と、『自由を司る女神の書』を掲げる勢力とのせめぎ合いが始まります。
「唐(中国)」でメタルマスターの「楊貴妃」と出会う”BABYMETAL”。
楊貴妃は言った。
「ホントのメタルを手に入れるには忍耐力が必要だ」
モッシュッシュ…
YUIMETALとMOAMETALは背中合わせになりひたすらおしくらまんじゅうを続けた。
過酷な試練を乗り越えBABYMETALは唐で忍耐力を手に入れた。
楊貴妃は言った
「オマエのものはオレのもの」
楊貴妃はBABYMETALをメタルの使者と認めMOAMETALにひとつの教典を託す
その教典は自由を司る女神の書
教典はみるみる内にその姿をエンブレムへと変え合体するのだ
はたしてエンブレムの示す意味とは!?
次回BABYMETAL DEATH MATCH FINAL BATTLE
開け、MOAMETALの四次元ポケット
ここまでお読み頂きありがとうございます。
それでは。また。
おち
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※アイキャッチ画像は、くろもり @crmo2018 さんの作品です。お借りさせて頂きました。