こんにちは。おちです。
BABYMETAL WORLD TOUR 2018 ヨーロッパ編。ドイツでのロックフェスであるRock am RingとRock im Park、そしてワンマンライブのインスブルック(オーストリア)、ユトレヒト(オランダ)。
いずれも観客を熱狂させ、BABYMETAL旋風を巻き起こしていました。彼らの絶叫と激しく体を揺さぶる姿、そして終演後の満足した笑顔を見ると、BABYMETALを体感した観客はその感動をしっかりと心に刻んだのではないでしょうか。
そして、ヨーロッパツアーの千秋楽であるイギリスのダウンロード・フェスティバル。

BABYMETALはセカンドステージのトリの一つ前、ダウンロード公式のポスターではロゴ表記されるなど、着実にその地位を高め、期待されていることが伺えます。
イギリス
イギリスはBABYMETALにとって、日本に次ぐ第二の故郷。そんなイギリスですが、どのようなストーリーを持っているのか実はよく分からないといった方も多いのではないでしょうか?
BABYMETALがその地で起こす事。それはどのような意味を持つのか?ただ漠然と盛り上げ、勝利したと見るだけではもったいない。
イギリスの時代背景を理解し、世界的な人類史をトレースすることで、そこで起こされる出来事の歴史的エポックが実感されるものと考えます。きっと、この地で起きた事象は後世に語り継がれるものになるかもしれません。
イギリスを抑えるとアメリカへ繋がります。イギリスとアメリカが現人類における世界の中心。世界制覇への道のりは、このイギリスとアメリカを抑えない限り達成できません。
Wikipedia-イギリス-(重要と思われるところを抜粋)
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、英: United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。
1707年合同法においては、イングランド王国およびスコットランド王国を1王国に統合すると宣言する。同法において、新国家名称は「グレートブリテン王国」または「グレートブリテン連合王国」および「連合王国」とすると述べている。
イギリスは主権国家として国であるが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、それほどの段階ではないが北アイルランドも、主権国家ではないが「国」(country)とよばれる。
1707年の合同法により「スコットランド、イングランド」が合併し、「グレートブリテン王国(ハノーヴァー朝)」となり、1800年の合同法により「グレートブリテン王国」と「アイルランド」が合併し、イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)となりました。
イギリスの歴史
「アイルランド、スコットランド、イングランド」それぞれ異なる歴史を持っています。各国の歴史を追うと、とっちらかってしまうので、ここは現在の英国王室(ウィンザー家、エリザベス女王、エジンバラ公)の起点となる17世紀から始めたいと思います。
Wikipedia-イギリス-(重要と思われるところを抜粋)
1600年イギリス東インド会社ができた。1603年にイングランドとスコットランドが同君連合を形成した。そしてヘンリー・ハドソンやウィリアム・バフィンが北米探検に活躍した。1620年、ピルグリム・ファーザーズが北米に上陸し、またフランスでユグノーが反乱しだした。1628年に権利の請願がなされ、翌年にリシュリューがユグノーと和解した。
ユグノーとは、カルヴァン派のことです。カルヴァン派とは、プロテスタント(キリスト教改革派)。神聖ローマ帝国のハプスブルクはカトリックで、このプロテスタントとカトリックの争いが三十年戦争です。
このプロテスタント側の背後にいたのが、前回の記事で触れたヘッセン=オラニエ・ナッサウ(オレンジ公)です。
BABYMETAL WORLD TOUR 2018 ユトレヒト編
Wikipedia-イギリス-(重要と思われるところを抜粋)
1639-1640年、スコットランド王国に国教会を強制しようとイングランドは二度の司教戦争を挑むが共に敗れてしまった。そして矛先をアイルランド王国へ変えて、チャールズ1世、オリバー・クロムウェル、ウィリアム3世の3人が17世紀末まで苛め抜いた。ウィレム3世はルイ14世に迫害されたユグノーに支えられ、1694年イングランド銀行を設立した。
国教会=プロテスタントです。ウィレム3世(ウィリアム3世)は、ヘッセン=オラニエ・ナッサウです。ユグノー=ヘッセン陣営とみてよいでしょう。
このユグノーによって、オランダのアムステルダム銀行やイングランド銀行といった、現在の中央銀行が作られました。ちなみにロスチャイルドの始祖であるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは1744-1812年なのでまだ生まれていません。
つまりロスチャイルドが銀行の支配者ではありません。ロスチャイルドは部長クラス。銀行の支配者はもっと上にいます。まぁ、それがヘッセンなんですけどね。
ヘッセンのルーツを過去へ遡るとヴェルフ家、スイス、ヴェネツィア、十字軍、テンプル騎士団、メディチ家、教皇(現代に逆流すればバチカン、ローマ法皇)と繋がります。サヴォイの絡みも面白い。さらに遡ると聖書の世界に入っていきます。(この辺りもいずれトライしたい。)
そして、17世紀はグレートブリテン王国(ハノーヴァー朝)=ヘッセンなので、アイルランドを苛め抜いたのはヘッセンです。
アイルランドはクロムウェル率いる議会軍により、残忍な行為を受けました。極めつけはジャガイモ飢饉。
市場において高く売買される農作物がイングランドに大量に移送される一方でアイルランドからは食物が枯渇し、不作に見舞われた小作農の大量餓死が発生。
結果、飢餓や貧困から逃れるために、生き残った多くのアイルランド人がアメリカ合衆国へと移住することになります。
己の強欲が他人を省みず弱き者を傷つけることに怒りといいますか、そのかっこ悪さに情けない思いがします。イジメ・ダメ・ゼッタイ。
Wikipedia-イギリス-(重要と思われるところを抜粋)
1707年の合同法で、イングランドとスコットランドは合邦しグレートブリテン王国となった。ピューリタンとユグノーが商売敵のカトリックに対し統一戦線を組み上げたのである。イギリス帝国の手が届く世界各地で、宗教と経済が不可分にからみあった紛争が続いた。植民地の争奪戦だけでなく、ロシア帝国とアメリカ合衆国で利権を工作するときも彼らは常に優位であった。
1801年の合同法でアイルランド王国と合邦し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国となった。
統一戦線としては、ジョージ4世の家柄・勲章、フリーメーソン加入、すべてが戦利品であった。フランス王が再びカトリックを強制することはないだろうし、もはや神聖ローマ帝国もなくなっていた。ベルギーを独立させ、阿片戦争に勝利し、統一戦線は鉄道・通信の独占に注力した。
通信の独占に注力とは良く分かった戦略ですね。情報を制するものが世界を制する。軍事においての情報は最優先事項でしょう。又、思考のコントロールにおいても情報が肝です。マスメディアはその重要な役割を果たしており、現代においてもその成果は特筆すべきでしょう。
東インド会社
17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事したのが東インド会社。東インド会社は世界初の株式会社です。主にイギリス東インド会社、オランダ東インド会社とあります。グローバリズムの始祖が東インド会社と言って良いでしょう。
東インド会社は極東(日本・中国・朝鮮・タイなど、東アジア・東南アジア)において、植民地支配を行っていました。軍隊も保有していた訳ですから会社というよりは帝国と言った方が分かりやすいでしょう。
Wikipedia-イギリス東インド会社-(重要と思われるところを抜粋)
イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、英: East India Company(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。
当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散した。
初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。
Wikipedia-オランダ東インド会社-(重要と思われるところを抜粋)
オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社、オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。
また日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められなかったが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点とした。南アジアでは主としてセイロン島のポルトガル人を追い払い、島を支配した。日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入りポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められた。アジアにおけるポルトガル海上帝国はオランダ東インド会社の攻勢によって没落した。
オランダ本国は、オランダ東インド会社が17世紀の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていた。17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争や絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗し、1689年にヴィレム3世がイギリス王に迎えられた後は、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡した。以後イギリスが大英帝国として、海上覇権を確立する事になる。
今までの記事をお読み頂ければ東インド会社のボスがヘッセンであることが容易に想像できると思います。又、17世紀以降のイギリスはオランダと争ったと言われていますが、この二つとも背後にヘッセン。これこそがヘッセンの必殺技「正反合」による統治法です。
2つを競わせ「善・悪」の二元論を駆使し、背後に回ることで一つの結果を得るというカラクリです。日本でも右翼と左翼がありますが、これも「正反合」による統治法、結果は一つに集約され背後に回った者がその結果を得るという仕組みになっています。
明治維新においても江戸幕府の背後にフランス。薩長の背後にイギリスとありましたが、この2つの背後にロスチャイルドがあり、そのボスのヘッセンがコントロールしています。
なのでツイッターでもよく見かけるのですが、「右だ左だ」と言っている時点で彼らの罠にハマっているということです。分かりやすいところでは2018年の現在においては安倍政権を批判したり、擁護したりしている時点で罠に嵌められているという事です。もっと違うところに目を向けなければ彼らの思い通りに事は進められてしまうでしょう。
そして、東インド会社を見ることで大英帝国への繋がりが見えてきました。
大英帝国
Wikipedia-イギリス帝国-(重要と思われるところを抜粋)
イギリス帝国(イギリスていこく、英語: British Empire)は、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。
帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分できる。
- アイルランドや北アメリカ大陸に入植し、北米植民地およびカリブ海植民地との貿易を中心にした時代
- アメリカ独立からアジア・アフリカに転じて最盛期を築いた19世紀半ばまでの自由貿易時代
- 自由貿易を維持しつつもドイツ帝国など後発工業国の追い上げを受け植民地拡大を行った帝国主義時代
- 20世紀に入って各植民地が独自の外交権限を得たウェストミンスター憲章以後の時代
一般に大英帝国とよばれるのは、特に3と4の時代である(名称については後段の名称を参照のこと)。1と2の時代を「第1帝国」、3と4の時代を「第2帝国」と呼ぶ。
イギリス帝国の終期は諸説あるが、早くて第一次世界大戦後に対外的にはアメリカ合衆国が台頭し、国内的には戦争に犠牲を払った植民地に自治権を付与するウェストミンスター憲章制定を以て終わりとする説、遅いもので第二次世界大戦後の1947年に、最大の植民地であるイギリス領インド帝国がインドとパキスタンとして独立し、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドのアングロサクソン移民地域も主権国家として独立したころには「帝国」から「イギリス連邦」への移行が顕著になった時期とする説などがある。イギリスが最後の植民地を失ったのは香港で、1997年の香港返還である。
大英帝国は、その全盛期には全世界の陸地と人口の4分の1を版図に収めた世界史上最大の面積を誇る帝国であり、唯一の超大国とも呼べる地位にあった。第一次世界大戦終結から第二次世界大戦までの間は、アメリカ合衆国とともに超大国であった。第二次世界大戦後にはイギリスは超大国の地位から陥落し、各植民地が独立してイギリス連邦が発足した。冷戦期には、アメリカ合衆国とともにソビエト連邦が超大国になった。
17世紀以降のイギリスはハノーヴァー朝。ヘッセンです。
1917年にウィンザー朝(現在のイギリス王室)となりましたが、ハノーヴァーはドイツ名であり、第一次世界大戦中の交戦国であるドイツ名を避け、ウィンザーと名称を変えただけで中身は変わりません。
このヘッセンが極東、アメリカを牛耳っていました。この時代、イギリスによる世界征服は順調に進んでいたと言って良いでしょう。どうりで英語が世界の公用語な訳ですね。
しかし、あるキッカケから順調だった支配が思い通りにならなくなりました。
それがアメリカ独立戦争です。
アメリカ独立
Wikipedia-アメリカ独立宣言-(重要と思われるところを抜粋)
アメリカ独立宣言(アメリカどくりつせんげん、英: United States Declaration of Independence)は、イギリス(グレートブリテン王国)によって統治されていた13の植民地が、独立したことを宣言する文書である。1776年7月4日大陸会議によって採択された[1][2]。このため、7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日として毎年盛大に祝われる。
独立宣言は、基本的人権と革命権に関する前文、国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成る。
中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。
アメリカ独立宣言は、「大英帝国=グレートブリテン王国=ハノーヴァー朝=ヘッセン」の支配を嫌い、モンロー主義のアメリカの北軍勢力が掲げたものです。
アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、英: American War of Independence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(英: American Revolution)もしくは革命戦争(英: Revolutionary War)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。
この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。
またアメリカ独立宣言はフランス革命に影響を与え、ラファイエットら起草のフランス人権宣言となって結実した。また独立戦争に参加したポーランド人のタデウシュ・コシチュシュコは、故国ポーランドにおけるポーランド分割に対抗して反乱を起こした。
交戦勢力を見るとアメリカ合衆国に相対する勢力がヘッセンばかり。(笑)
アメリカ独立宣言はフランス市民に勇気を与え、フランス革命によりフランス市民はアメリカと同様に「自由・平等・友愛」を勝ち取りました。
そして、1861年から1865年のリンカーンに代表される南北戦争。第一次世界大戦、第二次世界大戦によりアメリカの北軍勢力により、ヘッセンはその力を抑え込まれたようです。
しかし、ヘッセンは膨大なゴールドを所持しており、しぶとく千年王国への道を仕掛けています。NWOしかり、昨今では陰謀論(背後はおそらく大本教)によるアメリカ悪の帝国へのプロパガンダが行われています。
ここの話はとても重要なのですが、だいぶ長くなってきました。ここからの話は別の機会でお話したいと思います。
以上、イギリスを見てきました。アメリカまで踏み込む事になり、長くなってしまいました。(すみません。イギリスを語る上ではアメリカも語る必要がありまして。)
ダウンロード・フェスティバル
イギリスは第二次世界大戦までは世界の中心であった事が分かります。イギリスは闇組織ショッカーの大親分であるヘッセン(ウィンザー家)の本拠地。
そこでBABYMETALのメタル・レジスタンスは何を生み出すのか?
BABYMETALはイギリスのソニスフィアで奇跡を起こしました。
そこで巻き起こした景色は「喜び」
人類の共通する潜在意識と呼ばれる「集合的無意識」に働きかける何か。
「喜び。生きることの喜び。お互いの自由を尊重し、尊敬の気持ちと感謝の気持ち。人は上も下もない。それが愛の本質。」
まさに「自由・平等・友愛」の精神。民主主義は未だに道半ば。主役はそこに暮らす一人一人。
これが世界を席巻し、世界征服を成し遂げる。
「音楽は世界を変える」
ひょっとして、人類史における重要な転換点になるかもしれない。
おっと、妄想が過ぎました。
いずれにしろ、ダウンロード・フェスティバル。とても楽しみですね!!
それでは。また。
おち