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打倒!ハプスブルク!!八十年戦争 メタルレジスタンス【前編】

こんにちは。おちです。

前回、 イルミナティ BABYMETALのメタルレジスタンス についてお話させて頂きました。

ダークサイド満載で初めてあの手の話を聞く方にとっては刺激が強すぎたかも知れません。^^;

そして今回のお話しは、前回の続きとなります『イルミナティ』の歴史についてです。

と、行きたい所でしたが、『イルミナティ』の歴史を語るその前に、イルミナティが創立(1776年)されるまでの時代背景を見ておかなければ全く理解できないと思いました。

なので今回は、一つ前の時代である15世紀〜17世紀のヨーロッパの歴史について触れ、時代背景を抑えたいと思います。

ちなみに長くなるので前編と後編に分けさせて頂きます。

※非常に複雑でまとめるのに苦労しました。ひたすら調べるという苦行、かなり忍耐を要しました。だから、読んでくれなきゃ泣きます!(笑)

『イルミナティ』の歴史(18世紀以降)については次回に語ります。

闇と言われるもの。そこから目を逸らさず、しっかり見つめると、それも人の営みであることが分かります。

では、始めます。

イルミナティ前夜

「革命」

それは自らを超え、新たな自分を創造する事への挑戦

すなわち己との戦い

A-KIBAの魔力によって失われたホントのメタルを取り戻すため

BABYEMTALは新たな試練へと立ち向かう

ここ東京台場町に集った同志諸君と共に「メタルの方舟」フライングVに乗り修行の旅へと出るのだ…

諸君 首の準備は出来ているか?

いよいよ「五月革命」の幕開けだ!!

“自らを超え、新たな自分を創造する事への挑戦”

この言葉、シビれますね。その先に見える景色を想像するだけで「ワクワク」してきます。

さて、これからイルミナティが創立されるまでの時代背景を見ていきます。ここを抑える事ができれば世界の歴史の流れが見えてきます。

そして、今起こっている事もこの歴史の延長線上である事が見えてきます。

しっかりと、ついてきて下さい。

イルミナティが創立されたのが、18世紀の1776年です。(ちなみにアメリカ独立も同じ年の1776年。)

そこから時計の針を300年ほど巻き戻します。そこが起点となります。

世界の覇者-ハプスブルク家- 大航海時代

時代は、神聖ローマ帝国とスペイン・ポルトガルの2つの帝国を所有するハプスブルク家の最盛期の時代。15世紀から17世紀(西暦1400年〜1600年)です。

ハプスブルク家については、BABYMETAL WORLD TOUR 2018 インスブルック編でも触れさせて頂きました。

そして、この頃はスペイン・ポルトガルによるアフリカ・アジア・アメリカ大陸の侵略が行われた大航海時代でもあります。

15世紀末(1492年)にコロンブスによる新大陸(アメリカ)が発見されました。

コロンブスは偉大な探検家として評価されているのが一般的ですが、よく調べて見るとそれがとんでもない誤解である事が分かります。

Wikipedia-クリストファー・コロンブス-によると、コロンブスは、探検家・航海者・コンキスタドール、奴隷商人であると述べられています。

コンキスタドールとは、

金銀を求めてアメリカ大陸を探索し、アメリカ大陸の固有文明を破壊し、黄金を略奪した。

またインディオの生命財産を脅かし、(キリスト教徒側から見た)異教徒の女性に対し強姦・暴行を行った者も多数存在する。

と定義されています。

またコロンブスは現地人を指し、”彼等は素晴らしい奴隷になるだろう”と語っています。

そして、

コロンブス率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行い、行く先々の島々で、無差別殺戮を繰り返し、まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。

と述べられていました。

これを見ると、コロンブスは、偉大でも何でもなく、ただの残忍な侵略者にすぎない事が分かります。もはや海賊と呼んでも過言ではないでしょう。

※同様にアステカ王国(メキシコ)を侵略、滅ぼしたエルナン・コルテス、インカ帝国(ペルー、コロンビア、チリ)を侵略、滅ぼしたフランシスコ・ピサロなどがいます。また、フィリピンもミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されました。これらの国は現代でも貧しく治安が悪いです。当時の悲劇がまだ引き摺ってしまっています。

参考:スペイン・ハプスブルク朝

アメリカ大陸で略奪された金銀財宝は、これらの海賊によって、スペインに送られました。この富により、スペイン王国は『太陽の沈まない国』と呼ばれるようになりました。

スペイン・ポルトガルのオーナーがハプスブルク家です。ドイツ・オーストリアの神聖ローマ帝国のオーナーもハプスブルク家です。

この時代のハプスブルク家は世界最強であった事が分かります。

打倒!ハプスブルクの狼煙!! -宗教改革-

16世紀(1500年〜、日本では戦国時代)、ハプスブルク家は最盛期を迎えていましたが、その傍、苦虫を嚙み潰している勢力がいました。

それが、ヘッセン(ドイツ)、オラニエ=ナッサウ(ネーデルラント17州、今のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、サヴォイ(イタリア北西部、フランス東部、スイス)などの一応位置的にはハプスブルグ皇帝に仕える諸侯や、ハプスブルグに敵対するフランスのブルボンです。

※当時のフランスはスペインと神聖ローマ帝国に挟まれ難しい立場に立たされていました。

あの手この手を使いハプスブルク家に戦争(おしくらまんじゅう、モッシュッシュ)を仕掛け、弱体化を図ります。

その一大イベントがカトリック(ハプスブルク家)とプロテスタント(オラニエ=ナッサウ、ヘッセンなどの諸侯)による八十年戦争(1568年から1648年、三十年戦争含む)です。

Wikipedia-八十年戦争-

八十年戦争は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある。この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年ヴェストファーレン条約によって独立を承認された。

この八十年戦争の前夜として、宗教改革があります。

Wikipedia-宗教改革-

宗教改革とは、16世紀中世末期)のキリスト教世界における教会体制上の革新運動である。贖宥状に対するルターの批判がきっかけとなり、以前から指摘されていた教皇位の世俗化、聖職者の堕落などへの信徒の不満と結びついて、ローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展した。

ルターによるルター教会、チューリッヒのツヴィングリやジュネーヴのカルヴァンなど各都市による改革派教会ヘンリー8世によって始まったイギリス国教会などが成立した。また、当時はその他にアナバプテスト(今日メノナイトが現存)など急進派も力を持っていた。

当時は、ローマ・カトリックが主流。このローマ・カトリックを擁護し続けていたのが、ハプスブルク家です。

地球上にカトリックの十字架を立てるべくスペイン・ポルトガルを通じてアジア・アメリカへと侵略、金銀財宝を略奪し、この富により、ローマ・カトリックのスペイン王国(ハプスブルク家)は『太陽の沈まない国』と呼ばれるようになったというのは前述の通りです。

この頃のローマ・カトリックは拝金主義が蔓延り、キリスト教の崇高な教えに反し強欲にまみれるなど、腐敗していました。

その最たるものがローマ・カトリック教皇による贖宥状の乱発です。

贖宥状とは、罪の償いを軽減する証明書のことです。免罪符とも呼ばれます。贖宥状を手にすれば罪は許されるというものです。

ローマ・カトリック教会はこの贖宥状をお金で買えるようにしました。

キリスト教を信じない者にとっては、この贖宥状に何の価値も感じませんが、当時はキリスト教の教えが絶対であり、みな信じ込んでいました。

みな、罪の許しを求めて贖宥状を買い求めました。

罪の許しをお金で買う。キリスト教の崇高な教えを学ばず、お金で解決してしまう。

それをキリスト教の崇高な教えを行うはずの教会が学びを促さず、物で売る。

これをルターは批判しました。宗教改革(1517年)の始まりです。

この宗教改革の波はヨーロッパ全域へと拡がります。

そして、プロテスタントが生まれました。

プロテスタントという総称は、その担い手達がローマ・カトリック教会に抗議(ラテン語: プローテスターリー)したことに由来します。

※プロテスタント運動に対抗する一連の流れ(対抗改革)でイエズス会が設立(1534年)されました。イエズス会は腐敗したカトリックを自浄する一面もありました。ちなみにイエズス会は軍隊です。

Wikipedlia-イエズス会-

イエズス会は、キリスト教カトリック教会の男子修道会1534年イグナチオ・デ・ロヨラフランシスコ・ザビエルらによって創設され、1540年にパウルス3世により承認された。世界各地への宣教に務め、日本に初めてカトリックをもたらした。なおイエズスは、中世ラテン語による Jesusイエス・キリスト)の古くからのカトリックの日本語表記。

イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれた。このような軍隊的な呼び名は創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前に騎士であり、長く軍隊ですごしたことと深い関係がある。

打倒!ハプスブルク!! -八十年戦争(第一次モッシュッシュ)-

ハプスブルクに苦虫を噛まされていた、ヘッセン、オラニエ=ナッサウにとって、宗教改革は好機だったでしょう。

プロテスタントを支援し、燻っていた火種に火をくべるべく共謀したことは想像に容易いです。

このプロテスタントによる反乱が、ヨーロッパ北部のドイツ(シュマルカルデン戦争:1546年〜1547年)、フランス(ユグノー戦争:1562年〜1598年)で起こりました。

この火種がネーデルラント17州(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)にも飛び火します。

八十年戦争の発端の地であるネーデルラント17州は、当時(15世紀後半)、カール5世(ハプスブルク家)が統治していました。

このネーデルラント17州にプロテスタントが伝わり普及していったために、ハプスブルク家はカトリックによる取り締まりを強化しました。

そして、異端審問が行われます。

異端審問はスペイン国王(ハプスブルク家)の使者により行われ、その暴力と権力の乱用は、迫害されたプロテスタント教徒とカトリック教徒との間に”緊張状態”を生み出していきます。

で、1556年にカール5世は息子のフェリペ2世にスペイン王位を譲位しました。

カール5世はネーデルラント17州をうまく統治し”緊張状態”のまま留めていましたが、息子のフェリペ2世は妥協をしない強硬派。

そしてある時、ネーデルラント17州内で反カトリック暴動が発生します(1566年)。その反乱はネーデルラント各地へと広まります。

フェリペ2世は事態の収拾を図るため、1万ほどの軍勢を派遣し、これを鎮圧。暴動の責任をネーデルラント貴族へ問い、有力貴族20人余りを処刑。異端審問を実施し、プロテスタントを弾圧しました。

これにより保たれた”緊張状態”が瓦解しました。

この時、これから八十年戦争の主導的立場になるネーデルラントのオラニエ公ウィレム1世は、生まれ故郷であるナッサウ(ドイツ)へ逃亡していました。

そして、1568年の4月。ドイツに逃れていたウィレム1世は、報復としてプロテスタントの軍を率いてネーデルラント北部と中部から一斉に進攻。

八十年戦争『おしくらまんじゅう、第一次モッシュッシュ』が始まります。
※オラニエ公ウィレム1世はどうやって軍を調達したのか?ウィレム1世は進攻以前の経緯については口を塞いでおり、これにより沈黙公と呼ばれています。私は背後にヘッセン(ドイツ)がいたと見ています。ヘッセン方伯フィリップはプロテスタントを支援。

ウィレム1世は威勢よくネーデルラント17州に進攻しました。初戦は成功しましたが、返り討ちに合います。

そして、今度はフランスに逃れ、ユグノーに合流します。(フランスではプロテスタントの事をユグノーと呼びます。)

そこでウィレム1世は、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」と呼ばれる海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織し、低地地方の沿岸(バルト海沿岸)を無差別に略奪を繰り返しながら、徐々に勢力を回復。

1572年にウィレム1世率いる「海乞食(ワーテルヘーゼン)」は、バルト海に接するネーデルラント17州北部のブリーレの占拠に成功。港湾都市を少しずつ制圧していきました。

同年、ウィレム1世はネーデルラント17州の内、ホラント州とゼーラント州の総督になります。

ウィレム1世は、1577年にユトレヒト州、1578年にはアムステルダムを自らの陣営に加え、1579年にユトレヒト同盟を結成、反スペイン陣営をまとめあげます。

間もなくアントウェルペンなどの主要都市も合流、1580年には残りの北部4州も合流しました。これらの州は、反スペイン勢力(ハプスブルク家)の中心となりました。

一方で、ネーデルラントの南部の州はカトリック派のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの活躍により、制圧されていきました。

ユトレヒト同盟の成立とほぼ同時期に、ネーデルラント南部の諸州はアラス同盟を結成し、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世に対して、協調的な姿勢をとります。

これにより、ネーデルラントは北部7州(プロテスタント)と南部10州(カトリック)に別れることになりました。

※この過程でウィレム1世は1584年にカトリック教徒により暗殺された。

そして時代は前後しますが、フランスでは並行してユグノー戦争が続いており、カトリックによるユグノー(プロテスタント)への弾圧、サン・バルテルミの虐殺(1572年)もあり、これを受けたプロテスタントの多くが、ネーデルラント北部7州へ流入するようになりました。

ここで重要なのが、毛織物工業で栄えたフランスのフランドルブラバントの2州から、1万人以上の商工業者(ユグノー)が北部ネーデルラントへ亡命した事です。(一部はイギリスにも亡命した。)

これらの人材がネーデルラント北部へ移動した事により、ネーデルラント北部(オランダ)の経済は発展します。ユグノー資本が集中投下され、オランダで毛織物工業のマニュファクチュア(工場制手工業)が起こり、その技術力は世界水準にまで成長を遂げます。

これが、後の産業革命の礎となります。

※産業革命と言えばイギリスですが、今の国単位で見てしまうと混乱します。勢力で見る必要があります。ここはイギリスのハノーバー朝の流れを見ればルーツはオランダ、オラニエ・ナッサウのウィレム1世であることが分かります。その背後にヘッセンがいることも見えてきます。参照:BABYMETAL WORLD TOUR 2018 ユトレヒト編

世界初の株式会社であるオランダ東インド会社の設立もこの頃(1602年)です。北ヨーロッパで初の中央銀行であるアムステルダム銀行(イングランド銀行のモデルがこのアムステルダム銀行)の設立もこの頃(1609年)です。

※さらにアムステルダム銀行のモデルになったのがヴェネツィアのリアルト銀行です。ヴェネツィアと言えば『ベニスの商人』。銀行『BANK』の語源になったデル・バンコ一族やスイスのドンであるシェルバーン。そしてこれらの大親分であるサヴォイ。その歴史を遡れば、テンプル騎士団や十字軍へ至ります。

この八十年戦争を通じた16世紀〜17世紀のネーデルラント北部で起きたことが、現在の資本主義の原点になると言っても良いでしょう。

そして、ネーデルラント北部7州の共和国は、ポルトガル(1580年からスペインと同君連合)とのオランダ・ポルトガル戦争(1602年 – 1663年)で香辛料貿易(香辛料、香、ハーブ、薬物及びアヘン)を奪取して、世界の海に覇を唱えました。

これにより、貿易の富がアムステルダムに流入して、ネーデルラント北部7州の共和国は、黄金時代を迎えることとなります。

※この頃に江戸幕府は鎖国を行い、スペイン・ポルトガルを締め出し、貿易相手をオランダへと切り替えています。

ネーデルラント北部7州は、海運、貿易、植民すべてにわたってスペインを凌駕し、1609年にはスペインとの12年停戦協定を結び、ハプスブルク家からの独立を果たします。(ネーデルラント連邦共和国=オランダの誕生)

ネーデルラント連邦共和国(オランダ)によって、ハプスブルク家の片翼であるスペインの封じ込みに成功しています。残るはドイツ・オーストリアの神聖ローマ帝国です。

(続く)

ここまでお読み頂きありがとうございます。

それでは。また。

おち

次の記事→打倒!ハプスブルク!!八十年戦争 メタルレジスタンス【後編】

※アイキャッチ画像は、くろもり @crmo2018 さんの作品です。お借りさせて頂きました。

 

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